リニューアル 古い人から新しい人へ コロサイ人への手紙 3:5-11(聖書)

私たちキリスト者はキリストと共に死に、キリストと共によみがえりました。古い人に死んで、新しい人になったのです。復活したなら、上にあるものを求めなさい。天にあるものを思いなさい。十字架に架かって死んだなら(3:3)、古いものを脱ぎ捨てなさい(3:8)と聖書は命じています。

5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。6 このようなことのために、神の怒りが下るのです。7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(コロサイ人への手紙 3:5-11)

古いいのちに死に、新しいいのちに生きているなら、悪いものを捨ててしまいなさい。と聖書は勧めます。5つの悪いことが2回出てきます。最初は、キリスト者ならすでに乗り越え、解決したものとして書かれています(5節)。2つ目は今、捨てなければならないものです(8節)。

執筆中のパウロ

私たちは以前は神に喜ばれない、神の怒りをかうような歩み方をしていました。すなわち、古い人でした(9節)。古い人とは、救われる前の性質、アダムにある性質です。私たちが生まれながらに持っているものです。基本的に、人は罪に鈍感です。昨年は三浦綾子さんの生誕100年でしたが、彼女が自伝の「道ありき」で書いています。「罪に鈍感なのが最大の罪なのではないか」と。

しかし、私たちは今、神の恵みによって、「新しい人」にされています(10節)。主イエスを信じた時に、洗礼を受けた時に、古い人に死んで、新しい人に生まれ変わったのです。新しい人とは、イエス・キリストにある性質です。私たちは義の衣を着せられたのです。罪を犯したアダムに神は皮の衣を用意してくださいました。それは動物が犠牲になったことを示しています。その動物は羊だったのではないでしょうか。まさに神の小羊イエス・キリストを予表しています。

私たちは新しい歩みをするようにと神から召されています。しかし、注意していないと、古い人に戻されてしまいます。エジプトを脱出したイスラエルの民は、エジプトに戻ろうとしたのです。罪の世界、奴隷状態に帰っていこうとしてしまったわけです。

ですから、クリスチャン生活において、いつも古いものを脱ぎ捨てることが大事になってきます。なぜなら、古いものを脱ぎ捨てなければ、新しいものを着ることはできないからです。旧約聖書に出てくる預言者エリシャがそうでした。旧約聖書のⅡ列王記2:12-14にこのように書かれています。12 エリシャはこれを見て、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。そこで、彼は自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

エリシャは自分の師匠であるエリヤが天に昇っていく時に、エリヤの霊の二つの分け前を願いました。エリヤの2倍の油注ぎを求めたのです。これは長子の権利、エリヤの働きを引き継ぐということです。でもそれを受け取るには、まず彼は自分の着物を脱ぎ捨てる、古い自分を捨て去る必要があったのです。エリシャはエリヤの外套が欲しかった。これはモーセの杖に似ているかもしれません。普通の外套のように見えますが、違ったのです。何か特別な力が溢れていました。エリシャが初めてエリヤに会った時に、そのことを経験しました。エリヤはエリシャに通り過ぎながら、外套をかけただけでした(Ⅰ列王記19:19)。これは預言者だけが着る外套だったと思われます。エリシャはとにかくエリヤの外套が欲しかったのです。いよいよその時が来ました。エリヤは天に昇っていきます。エリシャは自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂きました。すると、何が起こったでしょうか。エリヤの身から落ちた外套をエリシャは受け取ることができたのです。ここで古いエリシャが死にました。以前のエリシャが死に、「新しい人」となったのです。彼のミニストリー(働き)において、エリヤの2倍の奇跡が起こりました。

エリヤと火の戦車

今、現在、私たちは「新しい人」として歩んでいます。新しい人になるのではなく、すでに新しい人です。私たちは世の光になるのではなく、すでに「世の光」です。そして、その新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至ります(10節)。私たちはこれから更に聖められ、いよいよ「神のかたち」が回復されていきます。

アダムは罪を犯し、「神のかたち」を失いました。人類はみなそうです。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストが人類を救うために、この地上に来てくださいました。私たちは、主イエスを通して、失ってしまった「神のかたち」が回復されています。しかし、完全に回復されたわけではありません。

私たちの罪は赦されました。しかし、罪を犯してしまいます。宗教改革者のマルチン・ルターは言いました。「キリスト者は罪人であって同時に義人である」と。私たちは罪が赦された罪人です。

最初の人アダムが「神のかたち」として創造されました(創世記1:26,27)。 ここに人間本来の姿が示されています。アダムとエバは、神との良い健全な関係があり、いのちの息を吹き込まれて、いのちある存在として造られ、またエデンの園に置かれて、この地上を治め、神の栄光のために働く使命が与えられていました。

それが罪によって破壊されてしまいました。「神のかたち」が壊れてしまったのです。神との関係が歪み、いのちを失って死ぬ存在になり、自分の価値判断で動き、自分の栄光のために生きるようになりました。これが古い人です。

その時から神による回復のみわざが開始されました。そのクライマックスが主イエスの十字架と復活です。人は神との関係が壊れ、断絶されていましたが、御子イエス・キリストによって、神との和解が与えられました。新しい人になったのです。聖書(Ⅱコリント5:17)は宣言します。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス・キリストの十字架と復活によって、「神のかたち」が回復されます。「神のかたち」の回復が更に完成へと向かうために必要になってくるのは、聖霊の働きです。聖霊によって私たちは「神のかたち」が更に回復され、キリストの似姿に変えられていきます。そして、真の知識に至ります。真の知識とは、イエス・キリストご自身です。この世の、地上の知識ではありません。グノーシス、異端の知識でもありません。真の知識である主イエスです。キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています(2:3)。キリストがすべてです(11節)。

私たちはイエス・キリストを通してすでに「新しい人」にされています。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ています。しかし、古い人に引き戻そうとする力が働いていることを知らなければなりません。私たちは「新しい人」として、新しい歩みをすることが求められています。そのために古い自分を脱ぎ捨てなければなりません。エリシャがそうでした。そうすると、神が備えておられる新しいものを受け取ることができます。新しい人になることができるのです。

先ほど旧約のエリシャを見ましたが、最後に、新約の盲人バルテマイの信仰を見たいと思います。マルコの福音書10:46-52にこのように記されています。46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

ニコラ・プッサン作 《盲人を治すキリスト(エリコの盲人)》

バルテマイは盲人のしるしである上着を脱ぎ捨てたのです。彼はこれを着ているから施しをもらえました。でももう自分は変わるんだと決意し、過去の自分&今の自分と決別するんだと覚悟を決めたのです。バルテマイの信仰をここに見ることができます。彼は、イエス・キリストを通して癒しを受け取り、新しい人となり、新しい歩みをすることができました。

私たちはすでに新しい人ですが、日々古いものを脱ぎ捨て、神に喜ばれないものを捨て去りましょう。そして、いつも新しくされ、聖霊の働きによって、イエス・キリストの似姿へますます変えられていきたいと思います。  

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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