『使徒の働き』 の教会を目指して 使徒の働き2:41-47(聖書)

「使徒の働き」に登場する教会は躍動的です、いのちがあります。「使徒」の意味は「遣わされた者」です。神が人を救うために御子イエスをこの地上に遣わしましたが、イエス・キリストは弟子たち(使徒たち)を遣わしました。死を打ち破ってよみがえられた主イエスが弟子たちに現れた時に、彼らに言われました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書 20:21) 私たちも、イエスからこの世に遣わされています。

使徒の働き2章の教会はエルサレム教会です。これは世界で最初の教会で、イエスが約束された聖霊の注ぎ(ペンテコステ)によって誕生した教会です。

41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた、その日、三千人ほどが弟子に加えられた。42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(使徒の働き 2:41-47)

エルサレム教会に見られる10の特徴を見ましょう。

使徒たちの教えを堅く守った

使徒たちの教えとは、イエス・キリストの教えです。ペテロたちは主イエスから教えを受け、その教えをエルサレム教会の人たちに伝えたわけです。そしてその一部が聖書に記録されています。その教えを守る、実践する、実行するということです。

イエスは山上の垂訓で、二つの家の例えを話されました(マタイの福音書 7:24-27)。砂の上に建てられた家と岩の上に建てられた家です。見た目は変わらないかもしれません。通常時は問題ないでしょう。しかし、真価が問われる時が人生にはやってきます。嵐や洪水という困難、試練がやってきます。普段は家の土台は見えません。ですから立派な家、立派な人生に見えるかもしれません。しかし、その人の真実な姿が現れるのは洪水が来た時(苦難がやって来た時)です。

聖書の言葉を聞くことはとても大切です。そこから信仰が始まります。信仰は神のことばを聞くことによって与えられ、強められます。神の言葉を聞かなければ、読まなければ、私たちは自然と不信仰の歩みをすることになってしまいます。見えるものを頼るようになるからです。イエスは、神の言葉を聞くだけでは十分ではないと教えられました。みことばを堅く守り、実行する人が、岩の上に家(人生)を建てることになりますと言われました。イエス・キリストを人生の土台にすると言うことです。人の教えを頼りにすることは、砂の上に人生を建てていくようなものです。砂の上に人生を建て上げていくなら、脆いので、あっという間に崩れてしまいます。しかし、岩の上(イエス・キリスト、神の言葉)に家(人生)を建てていくなら、丈夫なので、主にあって守られます。私たち一人ひとりがイエスの弟子になっていくことが大切です。弟子の証拠は何でしょうか。それはみことばに従っているかどうかにかかっています。

交わり  

狼が狙うのは、群れていない羊、孤立して一匹でいる羊です。敵である悪魔が狙うのは、教会に集わないで孤立しているクリスチャンです。コロナ禍で心配なのは、教会に集まっていないクリスチャンたちが増えていることにあります。私たちは積極的に教会の集まりに参加することによって、信仰が励まされ、悪魔の攻撃から守られます。

パン裂き(聖餐式)

ぶどうジュースはイエスが十字架で流された血、パンはイエスが十字架で裂かれた体を表しています。自分の罪を悔い改め、洗礼(水のバプテスマ)を受け、イエスを信じた人たちが聖餐に与かっていました。十字架が私たちの信仰の中心です。なぜなら、イエスの十字架以外に罪が赦される道、天国への道、永遠のいのちへの道はこの世界にないからです。

祈り 

祈りによって聖霊の満たしが与えられます。使徒たちは、イエスが天に昇られた後、イエスの約束(もう間もなくあなたがたは聖霊のバプテスマを受ける)を信じ、祈り会を持ちました。彼らは10日間祈り続けた後、ペンテコステ(聖霊の注ぎ)を体験しました。

教会は「祈りの家」と呼ばれます。祈りは空間を超えます。もちろん実際に現地へ行くのに勝るものはないと思いますが、しかし、イエスのお名前によって祈る祈り、信仰による祈りには大きな力があります。私たちは本と世界の国々のためにとりなし祈っていきましょう。

不思議としるし(癒しも含めて)

使徒の働き3章には、生まれつき足のなえた人が癒された出来事が記されています。ペテロが「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(6節)と宣言すると、この人の足が癒され、彼のくるぶしが強くなり、彼は歩き出し、嬉しさのあまり飛び跳ねて神を賛美しました(8節)。このような御業がエルサレム教会では起こっていました。日本でもこのような御業が起こりますように祈っていきましょう。

みなに分配 

弟子たちは自分が持っている全てを主イエスと教会に捧げました。ここで大事なのは、自発的であったということです。強制ではありませんし、共産主義でもありません。ただ聖書は私たちクリスチャンに収入の十分の一を捧げるように命じているので、私たちは本来応答する必要がありますが、それもあくまで自由です。

世界に、日本もですが、貧困の問題があります。そのために日本では子供食堂の働きをしている教会がありますし、世界では孤児院の働きをしている教会があります。

心を一つにする   

ピリピ教会では二人の姉妹が仲たがいをしてしまいましたが、使徒パウロは主にあって一致してください、と勧めていました。イエスの十字架と復活、そして現代における聖霊の多様な働きを信じ、福音宣教と教会の働きをしていくという点で私たちは主にあって一致することができます。

宮に集まる

教会は「神の宮」と呼ばれます。私たちは教会に集まり、神を賛美礼拝します。聖霊の臨在を求め、私たちが礼拝の中で神との出会いを体験できるようにと願っています。使徒パウロのようにイエス・キリストを追い求めていきたいと思います。

好意を持たれた   

私たちは福音を曲げることはできませんが、人間的には極端であってはいけないですし、宗教的であってもいけないです。普通であるべきだと思います。

魂の救い  

初代教会では毎日人々が仲間に、教会に加えられました。これは凄い勢いのある教会です。「使徒の働き」に出てくる教会は、勢いがあり、いのちがあり、感謝と賛美があり、喜びがありました。何より「救い」のみわざが起こったのです。

日本の教会が目指す教会はこのような教会だと思います。エルサレム教会は私たちの模範です。

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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