エペソ人への手紙は使徒パウロが獄中から書いた書簡の一つです。パウロが書いた獄中書簡は聖書には4つ記録されています。エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙です。これらはパウロが牢獄の中から諸教会(個人)へ向けて書かれた手紙です。イエス・キリストの福音を語ったために牢屋に入れられ、苦難の中にあったパウロが書きました。
ピリピ人への手紙のテーマは「喜び」でした。コロサイ人への手紙は異端問題に対して書かれたものですが、その結果、優れたキリスト論になっています。コロサイ書は、「教会のかしら」であるキリストが主題になっていますが、エペソ人への手紙は、「キリストのからだ」である教会が主題になっています。
1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙 1:1-6)
執筆中のパウロ
この手紙は、パウロがエペソ教会に書き送ったものです(1節)。パウロは自己紹介をしています。自分は神のみこころによって使徒とされている。自分が使徒とされているのは神のご計画によると。この意識はとても大事なことだと思います。ここから使命感が生まれます。日本にはなぜ自分は生きているのか分からないという人が多くいるようです。生きている意味が分からないと、悲しいことに自殺をしてしまうケースがあります。進化論によれば、人の存在は偶然の産物ということになってしまうでしょう。しかし、私たちは神の創造を信じています。神がご計画されて、私を生み出してくださった。ですから、私の人生には目的があると知り、私たちは自分が生きているのは神の御心によると確信を持つことができます。その意識は私たちに生きる力、苦難に打ち勝つ力を与えてくれます。
パウロとはラテン語で「小さい」という意味です。パウロの元々の名はサウロでした。これはイスラエル初代の王であったサウロ王にあやからせたい、サウロ王もパウロもベニヤミン族出身なので、サウロ王のように偉大な人物になって欲しいと、親が願ってつけたのでしょう。それを目指してサウロは生きていたと思いますが、実際そのようになっていきましたが、ダマスコ途上でイエス・キリストに出会い、彼は自分は大きな者ではなく、「小さい」者であると自覚し、サウロからパウロへと名前を変えました。パウロは自分は小さい者であると言っていますが、同時に自分はキリスト・イエスの使徒である、王のメッセージを伝える者である、と自分を紹介しています。使徒とは遣わされた者という意味ですが、王の王であるイエス・キリストから遣わされ、イエス・キリストからメッセージを託されていると書いているわけです。
手紙を受け取ったのは、エペソ教会です。エペソの町にイエス・キリストの福音が伝えられたのは、使徒パウロが伝道旅行で訪れたからでした。紀元50年代で、イエス・キリストが昇天されてから、20,30年後のことです。そのことは使徒の働き18-19章に書かれています。エペソはこの地域の中心都市でした。現在のトルコです。エペソ教会で伝道し、教会を建て上げ、それから数年後(61年頃)に書かれたのがエペソ人への手紙です。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように(2節)。とありますが、「恵み」とは無条件で与えられるものです。本来はそれを受けるに値しないような者に注がれる神の愛です。
18世紀、イギリス人のジョン・ニュートンは船乗りとして奴隷売買に関わり、神から遠く離れていましたが、その彼が乗っていた舟が嵐にあい、いのちの危機にさらされました。彼は必死に祈り、奇跡的に助かり、その出来事を通して、回心しました。悔い改め、心を入れ替え、方向転換し、イエス・キリストを信じました。その彼が書いたのが、あの有名な「アメイジンググレイス」です。「驚くべき恵み」です。自分のように受けるに値しない者に神は目を留めてくださり、祝福してくださった。何という驚くべき神の恵みを自分は受けたのか。これを神への讃美歌として感謝しつつ歌詞を書いたわけです。
ジョン・ニュートン
パウロもそうです。教会とクリスチャンを迫害し、イエス・キリストから遠く離れていたパウロでしたが、神が彼の人生に介入してくださいました。これは神の恵みです。同じような恵みがエペソ教会の一人ひとりの上にありますように、とパウロは祈りました。また不安でいっぱいなら、平安が与えられるように、とも祈りました。
平安はヘブル語で「シャローム」です。シャロームは平安だけではなく、多くの意味を含んでいます。平和、安全、繁栄、健康、救い、勝利など。イスラエルで挨拶する時は、朝も昼も夜もシャロームです。私はメールでやりとりをする時に、シャロームと書いてくださる方がいらっしゃいます。また私も時々、シャロームを使いますが、これは相手を祝福する最高の言葉の一つと言えます。
パウロは3-14節で教会にとって、クリスチャンにとって、三位一体の神がどのような方かを書いています。ここではそのうちの3-6節に記されている父なる神について見ていきますが、ここに父なる神の愛を見ることができます。
私たちにはキリストにある霊的祝福が与えられています(3節)。「キリストにある」とは主イエスと個人的に人格的な交わりがあるということです。様々な祝福があると思います。健康が支えられ、経済が守られ、家庭と仕事が祝福される。心に平安がある。これは素晴らしいことです。しかし、一番素晴らしい祝福は、「天にある霊的な祝福」です。3つ見ましょう。
①選び
私たちは何と、天地創造の前から選ばれている、と書かれています(4節)。とても驚くべきことで、想像することが難しいです。神の選びとは凄いですね。私たちは一方的な神の恵みによって選ばれました。何か神に受け入れられるために特別なことをしたわけではありません。ただ、選ばれたのです。パウロはそれを実感していました。彼は教会を迫害する者でした。神の選びからは遠いように思われる者でしたが、その彼が神の選びによって救われ、以前は迫害していたイエス・キリストを宣べ伝える者に変えられていきました。
パウロの回心
選びは予定論と結びつきます。ある人は言います。「じゃあ神が私の人生全てを決めているのか」と。でもそうではないと思います。なぜなら、人間には自由意志があるからです。パウロにも自由意志が与えられていたので、使徒としての任務を果たすのを断る自由もあったでしょう。
私たちも神の選びに応答しない自由というのは確かにあると思います。でもそれはもったいないです。神の選びは非常に良いものです。特権です。神は私たちの人生を祝福したいから選んでくださったのです。決して不幸にするためではありません。
イエスは弟子たちに仰いました。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネの福音書 15:16)。私たちは自分でイエス・キリストを信じたと思っているかもしれませんが、そうではない。神が私たち一人ひとりを選んでくださったのです。なぜでしょうか?キリストにある霊的な祝福を注ぐためです。
②罪の赦し
神は私たちを御前で聖く、傷のない者として立たせてくださいます(4節)。私たちは罪ある者、傷がある者、汚れた者でした。しかし、罪のない者、傷がない者、聖い者=聖徒とされました(1節)。聖徒とは、神のために取り分けられた者という意味です。私たちはこの世から、罪の世界から、悪魔の支配から取り分けられました。そして、ますます聖められていきます。
以前に私たちを聖める3つのものを見ました。御霊と水と血です(参考:canaan.blog/renewal-new-start/)。聖霊の働きによって、また水(神のみことば)によって聖められます。そして、血です。イエス・キリストが十字架で流された血潮によって私たちは聖められます。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます、とヨハネの手紙第一 1章7節に書かれています。
私たちは神の選びを無駄にしてはいけません。信仰に踏みとどまらなければなりません(コロサイ人への手紙 1:22,23)。神は私たちを選び、聖め、傷のない者として、終わりの日に御前に(神の前に)立たせるという計画を持っておられます。でもそれを妨げるものがあります。1.この世の誘惑。デマスはパウロの同労者でしたが、この世に流されてパウロから離れ、教会から離れ、神から離れてしまいました。2.不信仰。信仰はどこからきますか。残念ながら普通、信仰は自然に与えられません。イエスは度々弟子たちの不信仰を責められました。信仰はキリストについてのみことば、聖書の言葉を聞くこと、読むことから始まります。そして、その神の言葉が私たちを力づけ、励まし、立ち上がらせてくださいます。
③神の子とされる
ヨハネの福音書 1章12節に、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。とあります。ガラテヤ人への手紙 4章6節には、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。子ならば、神による相続人です。とあります。
私たちは「天のお父さん」と呼びかけ、父なる神に祈ることができます。そして、神の子供であるということは相続人です。神の子ですから、天のお父さんが持っているものを相続できるということです。天にある祝福、霊的な祝福を受け継ぐことができます。
放蕩息子のたとえ話を見ると分かります。お兄さんに父親は言いました。「子よ。私のものは、全部おまえのものだ。」(ルカの福音書 15:31)神は、イエス・キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました(3節)。現在、祝福されています。未来も祝福されます。
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