神からの報い エペソ人への手紙 6:1-9(聖書)

キリスト者はこの世界でどのように歩んでいったらよいのでしょうか?クリスチャンの家庭生活の基本姿勢はエペソ人への手紙5:21に書かれています。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。これを前提として、使徒パウロは、話を夫婦関係から始めました。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい(5:22)。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい(5:25)。なぜなら夫婦関係が全ての人間関係の基盤になるからです。夫婦が誕生してはじめて、子供が生まれ、親子関係が生まれます。そして主人と奴隷の関係は、今で言えば、雇用する者と雇用される者と言えるかもしれませんが、その関係性へと話を進めていきます。今回はエペソ人への手紙6章1-9節を見ていきましょう。

1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主からうけることをあなたがたは知っています。9 主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。(エペソ人への手紙 6:1-9)

執筆中のパウロ

1節「子供たちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」詩篇127:3に、見よ。子どもたちは主の賜物。胎の実は報酬である。とあります。子供は神からの贈り物であり、報酬、神からの報いです。

子どもたちに命じられているのは、「あなたの父と母を敬え」(2節)というものです。これは十戒の5戒を引用しています。十戒は出エジプト記20章に書かれていますが、大きく2つに分けられ、1-4は神に対するもの、5-10は人に対するものです。人に対する戒めの最初が「両親を敬いなさい」という命令なので、ここで第一の戒めと言われているのかもしれません。十戒のうちで約束が伴うのは、ここと偶像を禁止して神だけを愛する戒めの2つです。

一つは、3節「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。もう一つは出エジプト記20:6 にわたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す、とあります。

次に親たちに対する命令が続きます。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(4節)神と教会から離れ、この世の価値観に流されていくクリスチャンが多い中で、信仰継承は大きな課題です。子供をおこらせてはいけません、とあります。私はたくさんのケースを見ているわけですが、私の考えでは、親の思い通り、または親の理想を子供に押し付けようとするのではなく、子供の人格を尊重することが大切だと思います。

アブラハムは子育てに成功したと思います。イサク、ヤコブ、ヨセフと信仰がしっかりと継承されていきました。しかし聖書には子育ての失敗例がたくさん出てきます。いくつか紹介したいと思います。まずはアロンです。レビ記の10章に出てきますが、息子のナダブとアビフは、神に香をたく時に、神聖な火が備えられていたにも関わらず、異なる火を捧げてしまいました。その結果、彼らは神に打たれ、滅ぼされてしまったのです。彼らに欠如していたのは、神への怖れでした。おそらくアロンは子供たちを甘やかして育てたのだと思います。

祭司エリの息子たち、ホフニとピネハスもアロンの息子と似ていて、主への怖れがありませんでした。主への捧げ物を自分たちのものとしたのです。Ⅰサムエル記2章に出てきます。エペソ5:21に書かれているようなキリストを恐れ尊ぶという心が彼らにはなかったのです。エリは過保護で、二人を真剣に叱ることがありませんでした。その結果、エリも二人の息子も神の裁きにあいました。

それに対して、ハンナの祈りによって生まれたサムエル。エリに仕えたサムエルは神を怖れ敬う素晴らしい神の器になりました。ではサムエルは父親としてはどうだったのでしょうか。サムエルには、ヨエル、アビヤという息子たちがいましたが、Ⅰサムエル記8章3節を見ると、このように書かれています。この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。彼は預言者としては主に用いられましたが、父親としては失敗してしまったのです。預言者として忙しく働いた結果でしょうか、子供を放任することになってしまったのでしょう。子育ては本当に難しいということですね。

アズベリー大学

信仰継承がなかなかうまくいかないということが言われている中で、アメリカで素晴らしいことが起こりました。ケンタッキー州にあるアズベリー大学でリバイバルが起こったのです。2023年2月8日に定例の礼拝が学校で行われていましたが、終了の時間が来ても、礼拝賛美が続き、悔い改めの祈りが続きました。誰が計画したわけでもなく、賛美が続き、その間に、聖書が読まれ、証しが語られました。私も動画を見ましたが、静かな聖霊の働きという感じがしました。でも若い世代の中に聖霊が働かれたのは本当に素晴らしいことです。日本でも同じようなことが起こることを期待して祈っていきましょう。

次が奴隷たちに対する命令です。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」(5節)

奴隷の問題は、この時代は大きく取り上げられることはありませんでした。古代ローマ社会の中で、奴隷制度が当たり前のように浸透していた時代だったからです。自由とは、すべての人に与えられるものではありませんでした。現代でも差別はあります。インドにはダリットと言って、カースト制度の外側にいて、人間と認められていない人たちがいるのも事実です。彼らはインドの人口に数えられていません。私はインドで彼らの証しを直接聞きましたが、本当に酷い仕打ちをされています。でも彼らは主イエスを信じて希望が与えられているのです。

現代人には、特に日本人にはあまりピンとこないかもしれません。「テルマエ・ロマエ」の映画を観たことがありますが、あれは漫画が原作で、古代ローマ社会を理解するには良いと思います。阿部寛演じる古代ローマの浴場設計技師のルシウスが、ひょんなことから現代日本へタイムスリップします。そこで、日本の風呂文化を目にするのですが、電気で動いているもの、扇風機、便座などに衝撃を受けるわけです。そして、日本で見たものを古代ローマでそのアイディアを用いて浴場を設計し、評判になっていくというストーリーです、でも日本で機械化しているものは、ローマではすべて奴隷が行うわけです。

そもそもここで奴隷が出てくるので、聖書は奴隷を容認しているのか、という批判を聞くことがあります。でもパウロは奴隷制度を変えることに関心があったのではなく、パウロが神から与えられていた使命はイエス・キリストの福音を伝えることにありました。ただパウロは全ての人が平等であることを書いています。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ人への手紙 3:27,28)

この奴隷も自由人もないと書かれている聖書の精神は、後の時代に、奴隷解放運動として19世紀にイギリスで起こりました。奴隷制度運動を導き、廃止させたのはクリスチャンたちです。ウィルバーフォースがリーダーでした。

パウロは自分のことを、「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」(ピリピ1:1)と言っています。彼はそこに誇りを持っていました。ですから、当時の奴隷たちにも、「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(6,7)と命じています。そしてその良い行い、信仰から出てくる行いを通して、主からの報いを受けることができます(8節)。

パウロはⅠコリント7:21,22ではこのように書いています。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。

マルチン・ルター(1483-1546年)

宗教改革者のマルチン・ルターも著書「キリスト者の自由」でパウロと同じようなことを言って、2つの命題を掲げています。1.キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも隷属しない。2.キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも隷属する。

 

私たちもそうです。罪によって不自由な者とされていましたが、イエス・キリストによって、真理によって自由にされています。同時に、主イエスに従う者として、神のしもべとされています。

奴隷は奴隷のままで神に仕えなさいとパウロは勧めました。私たちは召されたままの状態で神に仕えることができます。自分が置かれた場所で、家庭や職場、教会で、またその自分の立場で、主婦として、会社の一員として、教会の一員として、神の栄光を現わしていくことが、神の御心です。17世紀のフランスにブラザーローレンスという修道士がいました。彼は台所で食事係をする人でしたが、最初は単調に思える仕事であまり好きでなかったようです。でも台所で神を礼拝することを学び、主の臨在の中で歩むようになっていきました。彼は他の修道士を励ます存在になっていったのです。そして現代人をも励ましています。

ブラザー・ローレンス(1614-1691年)

最後に主人に命じられます(9節)。この地上で主人と言われていても、それは地上の主人に過ぎません。この地上のことは一時的です。しかし、天にあるものは永遠です。

主の主、主人である神が天におられます。その主は差別をされることがありません。神の前では皆が平等です。この地上では平等と感じられないことが多くあると思います。しかし、覚えたいことは、主からの報いがあるということです(8節)。奴隷は感謝されることはありませんでした。しかし、神は見ておられます。たとえこの地上での報いがなくても、天では報いがあります。

ですから大事なことは、立場がどうであっても、それをあまり気にするのではなく、一人のキリスト者として歩んでいくことが大切だと思います。エペソ4:1に召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい、とあります。この地上での歩みは、地上で完結するのではなく、天へと、神からの報いへとつながっています。そのことを覚えて、毎日感謝の心を持って、自分ができることを精一杯していきましょう。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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