キリストを追い求める ピリピ人への手紙 3:12-16(聖書)

パウロは、教会とクリスチャンたちを迫害している時に、ダマスコ途上で、復活されたイエス・キリストと出会い、彼の価値判断が全く変わってしまいました。以前得であったと思っていた彼自身の立派な経歴などがみな、キリストのゆえに、損と思うようになりましたとパウロは告白します(3:8,9)。ちりあくたと書いています。これはごみくずのことです。口語訳では、「ふん土」と訳されています。パウロのように言える人は少ないかもしれませんが、彼はそれほどまでにイエス・キリストの素晴らしさを体験している人でした。

パウロはイエスに出会って救われてから、ますます以前自分が誇っていたものが色あせてくるのを感じていました。そして、年々パウロはキリストの素晴らしさを知るようになります。私たちももっとイエス・キリストの素晴らしさ、イエスご自身を体験したいです。パウロは「キリストを得ました」(3:8)と書いています。パウロは確かにキリストを得ましたが、イエス・キリストを通して救われましたが、しかし、完全にされたわけではありませんでした。私たちも主イエスを信じ救われましたが、完全になったわけではありません。

12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。(ピリピ人への手紙 3:12-16)

私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません(13節)とパウロは書いています。神の国はすでに来ました。救いはすでに来ました。イエス・キリストの十字架と復活によってです。しかし、完全な神の国はまだ来ていません。私たちは「すでに」と「まだ」の中間に生きています。イエスの到来によって神の国と救いは来ましたが、イエスの再臨までは完全な神の国は来ません。ですから、イエスは弟子たちに(私たちに)主の祈りで「御国が来ますように」と祈るよう要請しています。現代において悪魔が働いている領域があります。そこに神が介入され、神の支配があらわされ、解決が与えられるように祈ることがクリスチャンと教会に与えられている使命です。

パウロの回心

ピリピ教会のある人たちはすでに神の国が来て、救いが完成して、もう私たちは何もすることがないと考えていたようです。現代の教会にもそのように考える人たちがいるのかもしれません。しかし、使徒パウロはそのように考えてはいませんでした。

まだ自分たちは途上(途中)にいます。終わりの時に、神の国が完全な形で来ることを聖書は預言しています。主イエスが再臨される時に救いは完成します。悪魔は縛られ、地獄に放り込まれます。しかし、それまではイエス・キリストを追い求めることが大切です。

パウロはイエス・キリストを追求していました(12節)。もっとイエスを知りたい、と生涯をかけてイエスを追い求めていました。それはまずイエスがパウロを捕らえて下さったからです(12節)。神がまずパウロに働きかけ、救いに導いてくださいました。これは神の一方的な恵み、神の愛です。パウロはその神の恵みと愛に応答し、今度は自分が神を捕らえようと、キリストを捕らえようと決心しています。私たちもそうです。まず神が私たち一人ひとりを捕らえてくださったのです。だから、私たちもイエスを追い求め、イエス・キリストのことをもっと深く知りたい、と求めていきましょう。

パウロは「この一事に励んでいます」と書いています(13節)。パウロにとって「生きることはキリスト」でした。パウロはただイエス・キリストに集中していたのです。イエスは主の足もとに座って、みことばに聞き入っていたマリヤを誉めました(ルカ10:39-42)。神はダビデは喜んでいました。なぜならダビデは一つのこと(神を礼拝すること、神を知ること、神の臨在を追求すること)だけを願っていたからです(詩篇27:4) 。

私たちは神の御子であられるイエスのことを完全に捕らえられるわけではありません。一生追い求めてもイエスのことを知り尽くすことはできません。聖書を学んでも全部を理解することはできません。でも私たちは聖書に出てくる彼らのようにこの一事に励みたいものです。キリストを知るとは、キリストの復活の力を知ること、キリストの苦しみ=十字架を知ることです(3:10,11)。神の栄光と苦難の両方です。

イエスを知るために、私たちはうしろのものを忘れなければなりません(13節)。過去の失敗や挫折、罪責感、悪い思い出など。過去の成功もそうです。自己満足してはいけません。敗北感も高ぶりも両方、手放す必要があります。そうでないと、私たちは過去の失敗、あるいは過去の栄光に留まることになってしまいます。過去に捕らわれないことが大事です。パウロは、「ひたむきに前のものに向かって進み」と書いています。過去の失敗や功績を忘れ、新しいものに向かって歩み続けることです。

執筆中のパウロ

パウロはクリスチャン生活をレースに参加しているランナーになぞらえています。キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして、一心に走っているのです(14節)。

へブル人への手紙12:1,2にこのように書かれています。私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

私たちは自分の義では救われないことを知り、イエスを通して与えられる神の義を受け取りました。ですから、すでにゴールできること、天国に入ることが約束されています。しかし、まだゴールしていません。天国への途上にあるわけです。悪魔は間違ったゴールへ誘導しようとします。過ぎ去っていく一時的なこの世の栄誉などを追い求めさせようとしてきます。そしてそれに失敗すると、今度はゴールできないようにしてきます。イエスから目を離させようとしてきます。クリスチャン生活とは、常に前進することが求められています。前進しないということは、後退していることになってしまいます。

ピリピ教会の中に完全主義者がいたようです。もうゴールしているという教えです。救われたら完全になるので、何も努力する必要はないという考え方です。確かに救いの条件に良い行いは必要ありません。人は救いのために、何一つすることはできません。イエスが十字架の上で救いのわざを全て成し遂げてくださいました。私たちは感謝して受け取るだけです。

ただその後は、パウロがここで教えているように、イエスを追い求めていく生き方が求められています。それには良い行いも含まれます。それが大人としての成熟した考え方です(15節)。子供のような純真な、単純な信仰は大切です。しかし、考え方においては大人にならなければなりませんし、成熟したクリスチャンになっていかなければなりません。

それぞれに達している基準があります(16節)。これは人それぞれ違うと思います。罪の基準も違います。神がそれぞれに光を当ててくださっているわけです。ですから、自分が罪と思うことは避けることが大事になってきます。また、これはした方が良いと思うことは実行することも大事です。やってはいけないこと、やった方がよいこと。両方ともそれぞれに基準があります。

もちろん私たちには聖書という絶対的な基準があります。聖書を学ぶ最大の理由の一つは、神が私たちに願っていらっしゃることを知るためです。聖書には私たちがしてはいけないこと、私たちがするべきことの両方が記されています。そして、知ったなら、実行することが求められています。私たち一人ひとり、それぞれが知っている聖書知識を実践に移すことが成長していくのに必要です。日々、実践することを通して、私たちはイエス・キリストのことを今よりももっと深く知ることができるようになっていきます。パウロのようにキリストを追い求めていきましょう。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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