牢獄の中からピリピ教会に手紙を書いた使徒パウロは、挨拶をしてから、ピリピ教会のために祈っています。
9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、11 イエス・キリストによって与えられた義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。(ピリピ人への手紙1:9-11)
識別力が与えられて、真にすぐれたものを見分けることができるように(9節)。これはピリピ教会の現在(この手紙を受け取った時点での)に対する祈りです。現代は、昔と比べて、更に多くの情報が氾濫しています。ですから、この情報化時代で賢く生きていくために必要な一つの力は、時代を見抜く識別力&洞察力です。
パウロはピリピ教会の未来(将来)のためにも祈りました。キリストの日(世の終わりの日)には、非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となりますように、神の栄光が現わされますように(10,11節)。
現代はますますイエスの再臨が近づいている時代です。私たち一人一人が、いよいよ御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22,23)、伝道の実を結ぶことができるように、神の栄光を現わすことができるように祈っていきましょう。
パウロは祈った後、自分の近況を報告します。
12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ人への手紙1:12-18)
ピリピ教会の人たちはパウロが牢獄に入ったことを聞き、パウロのことをとても心配し、祈っていました。またパウロが牢獄に入ってしまったので、福音伝道が進まなくなっていることをも心配していたでしょう。彼らの関心事は福音宣教の前進、神の国の拡大にありました。彼らは宣教の心を持っていたのです。そのようなピリピ教会に対して、パウロは書いています。私の身に起こったことが、すなわち、牢獄に入ったことが、かえって、予想に反して、福音を前進させることになったのをあなたがたに知ってもらいたいと思います(12節)。
私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり(13節)とありますが、一般的に考えれば、パウロが投獄されたことで、福音の働きは後退したように見えます。投獄というのは当然印象が良くありません。たとえ国や政府が悪くても、民衆には悪い印象を与えてしまうものです。まずパウロが投獄されている理由は、違法行為によるものではなく、キリストのゆえ、福音を伝えたゆえであることが分かります。
私が牢獄に入ったことを通して、ローマの兵隊にもイエス・キリストの福音を伝えることができたのです、と書いています。それは当初パウロが考えていたことではありませんでしたが、でも苦難を通して、新たな伝道の門が開かれたのです。
パウロは自分に起こる全ての出来事を霊的な目、信仰の目で見ていました。パウロは自分が経験していることを、すべて宣教の観点から理解するようにしていました。ピリピ教会はよく理解できたはずです。なぜなら、ピリピ教会は牢獄から誕生したと言ってもよいからです。
パウロたちは神に導びかれてピリピの町に行き伝道したにも関わらず、投獄されてしまいました。これでは最初に救われたルデヤたちがつまずいてしまうのではないかと思われました。しかし、彼女たちの信仰は強められ、またこの牢獄で看守と彼の家族が救われ、ピリピ教会に加えられたのです。パウロたちの投獄が、かえって福音を前進させました。「あなたがたはそれを見てきましたよね。今、同じようなことが起こっています」とピリピ教会に伝えているわけです。
執筆中のパウロ
私たちの日常生活はいつも順調であるとは限りません。時には福音が前進するのではなく、後退してしまっていると感じることが起こるものです。しかし、私たちはパウロのように、信仰の目で、霊的な目で、神の目で、自分に起こっている出来事を見たいと思います。そうすれば、何か以前では私たちが考えもしなかったような新しいものが見えてくるはずです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて、益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ人への手紙8:28)。困難はありますが、それが福音を前進させることになっていることを知ってください。全てが働き益となることを知ってください、と私たちにも神は語っていてくださいます。
コロナウィルスさえも福音の宣教の視点で捉えることができると思います。実際に礼拝に集まることが難しくなり、海外へ宣教に行くことができなくなってしまったわけです。これは人間的な視点で見ればマイナスに見えます。しかし、パウロのように福音の視点で見るならば、見方が変わると思います。
以前よりも簡単にオンラインで礼拝を捧げることができるようになりました。このことによって病気の方、仕事の都合、様々な理由で礼拝に来れない人たちが時間と空間を超えて、礼拝を捧げることができるようになりました。海外に伝道へ行けなくなりましたが、ネット伝道、ユーチューブ伝道、SNSを使っての伝道、様々な工夫がなされ、福音が発信されています。現代はますます世界が小さくなっている時代です。その状況に教会がコロナ前よりも少しずつですが時代の流れに適応できるようになってきているのではないでしょうか。
パウロと同じようなことを経験したクリスチャンたちは歴史の中にいます。一人だけ紹介します。ジョン・バニヤンです。17世紀のイギリスで起こったことですが、彼は国教会の牧師でないのに説教したと言うことで、牢獄に入れられてしまいます。彼は12年間も牢獄で過ごしたのです。しかし、その牢獄で彼に物語「天路歴程」の着想が与えられ、釈放された後、出版しました。
この世から来たるべき世(天国)への巡礼者の旅路が描かれています。これは素晴らしい作品で、英語の本では聖書の次に読まれている本と言われています。あの大説教家チャールズ・スポルジョンが100回以上読んだそうです。ジョン・バニヤンが牢獄に入らなければ、おそらく「天路歴程」の着想は与えられず、この本は書かれなかったでしょう。「天路歴程」は福音が前進するために今まで大きく用いられてきました。これからも用いられるでしょう。そのように苦しみがたくさんありましたが、ジョン・バニヤンが牢獄に入ったことも、福音の前進に役立ったわけです。
ジョン・バニヤン(1628年-1688年)
兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました(14節)。パウロが捕らえられて伝道の働きがダメになるのではなく、かえって多くの人たちが立ち上がり、福音は前進していきました。
パウロの宣教で注目されることが少なくなった伝道者たち(説教者たち)が、これはチャンスだと、ねたみや争いをもって(15節)、また党派心をもって(16節)、自分たちの勢力の拡大のため、福音を伝えました。ただ異端のような間違った教えではありませんでした。もしそうだったら、パウロは断固として批判していたはずです。
お互いの違いを認め合えば良いのですが、陰険なやり方でパウロの伝道を妨害したわけです。現代も自分と違う考えを認めないで、嫌なやり方で他の人の伝道を妨害する人物と働きがあることをとても残念に思います。
しかし、パウロは喜びました。もちろん、悲しみもあったと思いますが、彼は喜んだのです。なぜなら、あらゆる仕方で、キリストが宣べ伝えられていたからです。その事実をパウロは喜んでいます、今だけではなくこれからも喜ぶでしょうとパウロは言います(18節)。
だから、ピリピ教会の人たちにも、悲しむのではなく、喜ぶようにと勧めているのでしょう。パウロは自分自身、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ人への手紙12:21)と他の人たちに教えていますが、自らが実践しています。パウロはこれをイエス・キリストから学び、イエスを模範としています。これが福音的な解決法です。
私たちも、日本のキリスト教界において、聖霊論や終末論の違いで、残念ながら一致よりも分裂が目立つのを見ていますが、それでも様々な方法で福音が伝えられていることを喜びたいと思います。パウロの一番の関心事は、イエス・キリストの福音が宣べ伝えられているかどうかでした。
パウロは感情的に引きずられずに、全ての出来事を福音の前進という観点から見ています。誰が宣べ伝えようが、どのように宣べ伝えられようが、福音の内容が間違っていなければ、福音は力を発揮するということを覚え、イエス・キリストの十字架と復活のメッセージが宣べ伝えられていることを喜びました。
私たちの生活の中で福音の働きが後退しているように見えることが起こるかもしれませんが、神は働いておられます。もし一つの扉が閉じるなら、新しい扉が開かれることを信じましょう。そして、福音は前進していくということを確信して歩んでいきましょう。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です(へブル人への手紙10:39)
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