開催の賛否両論がありながらでしたが、1年延期で東京オリンピックが開催され、毎日熱戦が繰り広げられています。日本の金メダルはやはり嬉しいです。使徒パウロはオリンピックを意識してこのように書いています。
24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。(コリント人への手紙第一9:24-27)
パウロが生きていた当時、約2000年前ですが、ギリシャのオリンピアという町で4年に1度競技会が開かれていました。これがオリンピックの起源ですね。このコリントの町でもオリンピアのような競技会が2年に1度開催されていたようです。パウロはコリントに1年半滞在したので、おそらく競技会を実際に観たと思います。パウロは24節で、人生・信仰生活というのは、走る競技に似ていると表現しています。当時のオリンピックでは、優勝者には月桂樹の冠が与えられたのですが、パウロは「あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」と勧めています。
クリスチャン生活は短距離走ではなく、マラソンに近いと言えます。いくら100メートルを速く走っても、その後ずっと歩いてしまったり、もしくは途中棄権をしてはダメで、最後までしっかり走ってゴールすることが大事です。
選手たちは自制します(25節)。甘いものを我慢します。さぼらずに練習します。朽ちる冠=金メダルを目指して。当時「賞を受けるのはただ一人」(24節)で、金メダルしか価値がありませんでした。銀メダル、銅メダルも立派だと思いますが、当時は悲しいかな、ある意味2位も3位も10位も同じだったようです。私たちも自制し、信仰のレースを最後まで走ることが神から求められています。朽ちない冠を受けるためにです。
信仰のレースがオリンピックと違う点を2つ挙げたいと思います。
①冠(メダル)は1つではない、3つでもありません。冠(金メダル)はたくさん用意されています。
②一緒に競技をしている者はライバルではなく、味方、仲間であるということです。
他の人を出し抜いて、自分だけが賞を受けられるように走りなさいという意味ではありません。自分が給水したら他の人にも水をあげます。例えば、良い本を読んだら、その内容を自分だけで独占しないで、分かち合います。他の人のために祈ります。皆が祝福を受けることができるように、皆が完走しゴールできるためにです。
パウロがここで言わんとしていることは、「信仰生活はスタートしたら、皆が自動的にゴールできるというような甘いものではない」ということです。「途中で挫折する人が出てくる厳しいレースを走っている。だからゴールを目指して、しっかり走りなさい、しっかり戦いなさい」と勧めています。
1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。2 信仰の創始者であり、完成者でイエスから目を離さないでいなさい。(へブル人への手紙12:1,2)
レースをする上での心構えとしてパウロは2つの事を述べています。
①26節 目標(ゴール)がはっきりしていること
数日後、札幌でマラソンがありますが、彼らに聞くとします。「どこに向かって走っているのですか?」「実はよく分からないで、とりあえず走っているんです」と答えるランナーに出会うことはないでしょう。彼らはゴールがどこにあるかを知っていて、ゴールを目指して一生懸命に走ります。そして、自分がどのようなペースを保てば良いかを計算しながら考えながら走っています。
パウロは「空を打つような拳闘」もしてはいません(26節)、と書いています。「拳闘」とはボクシングのことで、相手を殴り倒すスポーツですから、空気を殴っていては勝利者にはなれません。しかし、あるクリスチャンたちの生き方はそのようであると使徒パウロは書いているわけです。
ゴールと目標がはっきりしない歩み、相手が分からずに空を打っている。パウロはそのような「的外れの努力をしてエネルギーを無駄にしない」という心構えで生きていました。彼は神を第一として、神の栄光を現わす人生を生きました。また悪魔が敵であることをしっかりと意識していました。
②途中で挫折しないための心構えの2つ目が、27節に書かれています。自制です(25節)。
パウロは自分の目指すべき目標に向かって進むために、自分の欲望を捨てて、自分の身体を無理にでも従わせるんだ、という強い決意表明をしています。そのような姿勢はアスリートたちに見ることができます。彼らと同じようにしなければ、この戦い(レース)は勝利することができないとパウロは言っています。
もちろん救いは恵みです。じゃあ人間が全く努力する必要がないのかと言えばそうではありません。私たちが努力するべき領域が確かにあります。厳しいレースを走っているという自覚が必要です。なぜなら、私たちは誰でも失格者になる可能性、危険性があるからです。今は惑わしの時代です。外側も内側もです。教会の外にはこの世の神であるサタンがいます。教会の内には自由主義神学(リベラル)の間違った教えがあり、また異端がはびこっています。
パウロは晩年に書いています。私は信仰のレースを全力で走りきったと。
6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(Ⅱテモテ4:6-8)
私たちにもそれぞれに神が用意されている走るべき道のり、人生があります。私たちは現在進行形で信仰のレースを走っていますが、失格者に、脱落者にならないように、最後まで走り続け、ゴールして、神から冠(メダル)を受け取りたいです。
ゴールでは信仰の先輩たちが私たちを待っています。私たちもパウロのように言いたいです。「私も全力で走り抜いた」と。天国において表彰式があります。イエスからメダルを受け取る時に、「よくやった。良い忠実なしもべだった」と言われるなら、すべての労苦が報われると思います。「悪いなまけ者のしもべだった」とは言われたくありません。
この地上では多くのことが隠されたままです。明らかにされないことがきっとたくさんあるでしょう。でも神はすべてを見ていてくださいます。もちろんこの地上でも報いはあります。しかし、多くの報いは天においてあると思います。人の評価はともかく、神の前に恥じることのない者として、天での表彰式を迎えたいと願っています。
イギリスの宣教師夫婦の話を聞いたことがあります。長年発展途上国で奉仕し、働きを終え、故郷に帰りました。何人かに手紙を出していたので、出迎えを期待していました。するとどうでしょう。船が港に着くと、大群衆が集まっていて、大歓声が聞こえてきました。「おかえりなさい」という垂れ幕もあります。夫婦は興奮します。こんなにも多くの人たちが私たちの働きを応援してくれていたんだね、と感動しました。そして船から降りる時が来ました。するとどうでしょう。人々が去っていくではありませんか。ついに誰一人いなくなってしまったのです。実はこの大群衆はある政治家が外交で外国へ行って成果を得て帰って来たので、集まっていたのでした。二人はとても失望しました。しかし、天で報いがあります。
多くの場合、この世における報いと天における報いは違うと私は思っています。私たちの評価は本当のところこの地上では分からないでしょう。天に行かなければ分かりません。しかし、はっきりしていることがあります。それは天で表彰式、冠&メダル授与式があるということです。金メダルを目指して走り抜きましょう。
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