キリストの花嫁なる教会 エペソ人への手紙 5:15-33(聖書)

今回のテーマは「キリストと教会」の関係性です。聖書にこのように書かれています。

15 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。17 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。19 詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。

30 私たちはキリストのからだの部分だからです。31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ人への手紙 5:15-33)

執筆中のパウロ

今回の箇所にも、歩むという言葉が出てきます。賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい(15節)と出てきます。続けて、16節で機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです、とあります。このエペソ人への手紙が書かれたのが紀元61年頃と言われています。その数年後に、ネロ皇帝によってクリスチャンたちは迫害され、パウロは紀元65年頃殉教しました。そして紀元70年にはエルサレムが陥落してしまったのです。悪い時代でした。

今も悪い時代です。闇が深くなっている時代です。光の中に留まらなければ、闇に飲み込まれるようになってしまうでしょう。賢く歩むために、18節に書かれているように、私たちは御霊に満たされることが何よりも大切です。そして、19~21節で賛美すること、感謝すること、互いに従うことが勧められています。これが賢い人の歩みであり、光の子供らしい歩みです。

エペソ人への手紙は「教会とは何か」ということを啓示している書簡です。教会には様々な表現方法があります。「神の家族」「神の宮」「祈りの家」、「キリストのからだ」(エペソ1:22,23)。そしてエペソ5章で見られるのが「キリストの花嫁」です。イエス・キリストが花婿で、教会(クリスチャン)はキリストの花嫁です。主イエスと教会は結婚関係にあるということです。

22-23節に結婚の奥義が記されています。

31節のみことばは、創世記2:24を引用しています。創世記の最初に出てきますが、神の創造において、二人の人が創造されました。アダムとエバです。二人は異なるものを予表していました。アダムはイエス・キリストの影でした。ですから、イエスは最後のアダムと表現されています。Ⅰコリント15:45-47を見てみましょう。聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

最初の人アダムに対して最後のアダムであるイエス・キリスト。地から出た第一の人アダムに対して、天から出た第二の人である主イエス。そしてエペソ5章を通して、エバが教会を予表していることが分かります。

アダムは「神のかたち」に創造されました。これは「イエス・キリストのかたち」と言うことです。コロサイ人への手紙1:15に、御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です、とあります。ですから、アダムが先にいて、それからイエスが来られたのではありません。先にイエスがいて、その後にアダムが創られたのです。ですから、神はアダムを「イエスのかたち」に創造されたのです。

神がアダムを創造された時に、「人が一人でいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)と仰って、アダムに深い眠りをくだされ 彼のあばら骨の一つを取って、エバが創られました。エバがアダム(アダムのわき)から取られたように、教会はキリスト(キリストのわき)から取られました。主イエスが十字架で私たちの罪の身代わりに死なれた直後、兵士の一人がイエスのわき腹を槍で突き刺すと血と水が出てきました(ヨハネの福音書19:34)。罪を贖う血、永遠のいのちを与える水を象徴しているようです。

主イエスは死んだ後、墓に葬られ、眠られました。そして教会が造られたのです。教会の役割はイエスの助け手となることです。イエスはこの時代、福音を伝え、教会を建て上げ、神の国を前進拡大させたいと願っておられますが、私たちはその働きに携わることを通して、神のご計画と働きに参加し、神の助け手となることができるのです。

アダムのからだの一部分を通して、エバは造られました。ここに「からだ」という側面を見ることができます。エバは教会を予表しているので、「キリストのからだ」です。そして、その後、エバはアダムの花嫁となり、二人は結婚しました。ここに「キリストの花嫁」である教会を見ることができます。

旧約聖書において、神はイスラエルを選ばれ契約を結びましたが、ご自身を夫の立場に置き、イスラエルには妻の位置を与えていることが分かります。だからイスラエルがご自身ではなく他の神々を拝んだ時に、イスラエルは姦淫の罪を犯した、霊的な不品行を行ったと表現されたのです。

一つの線が見えてきます。エバ⇒イスラエル⇒教会⇒天国での婚宴です。全て一人の女性を指しています。

このことは再臨のキリストにも言えるわけです。主イエスは今、神の右の座におられますが、再臨の時に、父なる神の元を離れ、花嫁である教会(クリスチャン)を迎え、一つになります。その描写が黙示録に出てきます。

6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、とかきなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。(ヨハネの黙示録 19:6-9)

結婚の奥義、それは「キリストと教会」を指しているということです。これを踏まえた上で、私たちの生活において、夫と妻の結婚関係に適用することが勧められています。「妻たちよ。」(22節)とありますが、自分に当てはまるとビクッとすると思います。22~24節に「夫に従いなさい」とあります。オッと、という感じですが。なぜそうする必要があるのでしょうか。23節に書かれています。キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。33節には、自分の夫を敬いなさい、とあります。まあ、自分に当てはめることが大切です。他の人、特に夫が妻にこのことを言うと喧嘩になりますので要注意です!

次に「夫たちよ。」(25節)と出てきます。25節に、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を「愛しなさい」、とあります。これも妻が夫に言うと喧嘩の原因になるでしょう。

夫婦関係とは本当に難しいものだと思います。それぞれの夫婦にしか分からない、二人にしか分からない微妙な問題というのがあるわけです。では大事なことは何か、と考えると、それぞれが、それぞれに命じられていることに注目し、集中することだと思います。自分ができる範囲でみことばに従うこと、従おうとすることが重要ではないでしょうか。これを実践していくときに、夫婦関係に良い循環が生まれてくると信じています。その時に現実の夫婦関係を越えたところの、神の偉大な奥義、キリストと教会の関係性に目を留めることが大事になってきます。そこからしか私たちは実践(妻が夫に従い、夫が妻を愛する)へと向かうことはできないのではないでしょうか。

教会(クリスチャン)は、「キリストの花嫁です」。天国で主イエスと教会(私たち)の婚宴(祝宴)が待っています。花嫁という表現は、女性の方がピンとくると思いますが、結婚式のためにいろいろと準備をする(した)と思います。私たちも今、花婿である主イエスとの結婚式を控えている準備期間なわけです。神の願いは、栄光の教会を、ご自分の前に立たせることです(27節)。聖められることが、私たちの目標になってきます。神が喜ばれる一人ひとり、教会になっていくということです。それはみことばによってなされます(26節)。聖書の言葉に応答することによって、私たちは神が願っている姿へと一歩一歩近づいていくことができます。

またその時に大事になってくるのは、御霊に満たされることです。18節に御霊に満たされなさい、とありました。なぜなら多くの場合、肉の力では、自分の力では、みことばに従うことができないのが私たち人間だからです。私たちは弱いです。しかし、私たちには助け主である聖霊がうちにおられます。聖霊は、父なる神、イエスと同様に神であり、人格と感情を持っておられます。4:30に神の聖霊を悲しませてはいけません、とありました。聖霊を悲しませるのではなく、逆に聖霊を喜ばせていくならば、御霊の満たし、聖霊充満を体験できるようになり、みことばに応答し、従っていくことができるようになると信じています。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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