新しい誕生 ボーンアゲイン  ヨハネの福音書3:1-15(聖書)

私が首都圏で牧師をしていた時ですが、ある礼拝にフィリピン人の女性が来られました。礼拝後にその方から質問を受けました。「あなたはボーン・アゲインしたクリスチャンですか?」と。それは私にとってはあまり馴染みのない、聞いたことのない質問でした。生まれ変わったクリスチャン。なぜなら私にとって生まれ変わっていれば、クリスチャンだからです。生まれ変わっていなければクリスチャンでないと思っていたからです。

この質問には彼女なりの意味が込められていました。彼女はフィリピン出身です。ですから国の宗教はカトリックです。多くの人々が自分のことをクリスチャンであると思っていました。しかし、現実はそうではありません。親がクリスチャンだから、家の宗教がカトリックだから、クリスチャンなのではありません。教会に行っているからクリスチャンというわけでもありません。クリスチャンとは新しく生まれ変わった人です。ですから、彼女が私に聞いたのは、「この教会はいわゆるフィリピンのカトリック教会(伝統的宗教)とは違う種類の教会ですか? あなたたちは新しく生まれ変わった人たちの集まり(教会)ですか? あなたたちはイエス・キリストを自分たちの救い主として信じていますか? あなたがたはイエス・キリストを信じて生まれ変わりを体験しているクリスチャンですか。そのような集まり、教会ですか?」という質問だったのです。

私は彼女の質問の意図を理解して、はっきりと答えました。私はボーン・アゲインした(生まれ変わった)クリスチャンであり、ボーン・アゲインした牧師です。そして、私たちは、ボーン・アゲインした人たちが集まっている教会です。すると、彼女は来週から自分たち(クリスチャンではない日本人の旦那さんとの)子供を二人教会学校に連れて来たいとのことでした。私は教会学校の教師たちを彼女に紹介しました。「彼らはボーンアゲインしたクリスチャンですから安心してください」と。

次の週から二人の子供たちが教会に来始めました。それを聞きつけた彼女と同じ境遇の友人たちも自分たちの子供たちを教会学校へ連れてくるようになりました。

私たちはクリスチャンという言葉に気を付けた方がよいです。エホバの証人や全能神といったキリスト教の異端の人々でさえ、自分たちのことをクリスチャンと名乗っています。私はクリスチャンですと言う人と出会ったら、場合によっては確認のために私たちもあのフィリピン人の女性のように「あなたは生まれ変わっていますか」と質問したらよいでしょう。本物かどうかを確かめるために。

ニコデモという人がイエスの所に来ました。

1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 (ヨハネの福音書3:1-15)

パリサイ人は偽善的宗教家でした。しかし、ニコデモは例外的な人物で、イエスのことをもっと知りたいと願っていました(1節)。彼は夜、イエスのもとに来ました。人目を避けたのだと思います。しかし、それ以上に彼の心の状態を表していると言えます。彼はイエスのことを神の元から来られた教師であることを認めていました(2節)。しかし、アンデレやナタナエルのように、イエスのことを救い主とは信じていませんでした。

昼と夜、光と闇、これはヨハネの福音書の大きなテーマの一つであると言えます。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネの福音書1:4,5)。光であるイエス・キリスト。闇である悪魔はイエス・キリストに勝つことは絶対にできません。

イエスはニコデモに言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)彼はイエスのお言葉を全く理解できませんでした。彼の答えはこうでした。「人は、老年になってて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(4節)

 

ニコデモは、人間による誕生しか知りませんでした。ですから、新しく生まれると聞いて、もう一度生まれるのは不可能ではないかと考えたのです。彼は、自然による誕生、肉による誕生しか知りませんでした。彼は神による誕生、御霊による誕生、イエス・キリストによる誕生、新しい誕生、超自然的な誕生、霊的な誕生を知らなかったのです。

ニコデモはパリサイ人でしたから、聖書的な知識、神学的な教養はあったと思いますが、霊的な洞察力には欠けていました。イエスが語られた「新しい誕生」はこの世の常識や人間の頭・理性では理解できるものではありません。これは霊的なことであり、目に見えないことであり、信仰の領域であり、御霊によってしか理解できません。

イエスは理解できていないニコデモに言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5,6節)ニコデモはイエスの説明を聞いても理解することができませんでした。彼は言いました。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」(9節)イエスは答えます。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」(10節)

中世のカトリック教会は良い行いを強調しました。彼らは新しく生まれ変わるのに必要なのは、良い行いであると教え、主張していました。これはキリスト教という宗教であり、決して新約聖書の教えではありません。16世紀マルチン・ルターはこの教えに苦しみました。彼はいわゆる良い行いをする模範的な修道士でしたが、救いを得ることはできませんでした。なぜなら、彼は自分の心というものをよく知っていたからです。しかし、彼はついにイエス・キリストを信じて、新しく生まれ変わることができました。

マルチン・ルター(1483年11月10日ー1546年2月18日)

ルターは「新しい誕生」についてこのように語っています。「キリストは我々のために生まれ、死に、葬られ、死から再びよみがえらされたと信じる者は、もう一度新しく生まれるのである。あなたがそのように考えるのであれば、あなたは新しい人である。」と。新しい誕生は、神の言葉によって、聖霊の働きによって、イエス・キリストを信じる信仰によって起こります。

イエスは言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは信じる者がみな、人の子に会って永遠のいのちを持つためです。」(13-15節)

モーセの時代、神に逆らったイスラエルの民は、神から送られた蛇によってかまれ、死に瀕しました。その時、主はモーセに言われました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数記21:8) 青銅の蛇を仰ぎ見た者は、死なずに生きることができました。私たちは主を仰ぎ見ることによって、救いを受け取ることができます。

イエスはニコデモとの会話で、彼の心にみことばの種を蒔かれました。これはイエスの個人伝道といえるでしょう。すぐには効果が出ませんでした。しかし、2-3年後に効果があらわれました。イエスが蒔いた神の言葉の種は実を結ばびました。ヨハネの福音書19:38-42を見ましょう。イエスが十字架で死なれた後の出来事です。

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。40 そこえ、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。

『キリスト降架』/ロヒール・ファン・デル・ウェイデン作(1400頃-1464)/ 画面中央でイエスの両腕を抱き抱えているのがニコデモです。

ニコデモは、この時は、夜ではなく、昼に来ました。隠れることをしませんでした。キリストの十字架を恥じてはいませんでした。この行動は、自分がイエス・キリストの仲間であることを示す、危険を伴うものでした。しかし、ニコデモは、イエスに対する自分の信仰を行動をもって表明したのです。この時、ニコデモは、新しい誕生を体験していたと私は思っています。

私たち人間は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。天国に入ることはできません。私たちは誰でも一度誕生しています。だからこそ、この世界に生まれ、私たちは生きています。私たちは誕生すれば、この世の国を見ることはできます。誕生しなければ、この世界を見ることはできないでしょう。同じように、イエス・キリストを信じて新しい誕生を体験しなければ、神の国を見ることはできません。しかし、イエスを信じる者は新しく生まれ、永遠のいのちが与えられ、神の国に入ることができます。

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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