信仰の戦い ピリピ人への手紙1:27-30(聖書)

25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。27 ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたについて、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。29 あなたがたは、キリストのため、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。(ピリピ人への手紙 1:25-30)

使徒パウロは、ピリピ教会へ行き、あなたがたの信仰を強めたい、信仰の前進(成長)の役に立ちたいと願っていました(25節)。そしてピリピ教会に行こうと計画している、と書かれています(26節)。この手紙は教会で読まれているので、この26節で皆から大きな拍手が起こったのではないかと想像します。27節から雰囲気が少し変わるのを感じます。自分の状況からピリピ教会の状況に目を転じ、彼らに語り始めます。

私がピリピに行くにしても、行けないにしても、言いたいことがありますと。キリストの福音にふさわしく生活しなさい(27節a)、と伝えます。それは福音が前進するためにです。信仰生活を続けていくこと、信仰を守っていくには、戦いがあります。なぜなら、この世の神である悪魔が働いているからです。私たちの戦いは個人的な戦いもありますが、それだけではありません。共同の戦い、協力して戦う教会としての戦い、というものがあります。

でもまずは、やはり一人一人が福音に堅く立つことが求められます。キリストの福音にふさわしく生活するということです。注の別訳では「御国の民の生活をしてください」と訳されています。こちらの方が直訳的です。「生活しなさい」にはギリシャ語の「ポリテゥオ」という言葉が使われていますが、ギリシャの都市を表わす「ポリス」に基づいています。英語で政治のことを「ポリティクス」といいますが、このポリスから来ているわけです。

ローマの植民地の住民であったピリピ教会の人たちは、ローマの市民権に伴う特権と義務・責任を理解していました。ローマとは距離が離れていましたが、彼らはローマの法律を守り、ローマ人として生活していました。でもそれだけでなくて、自分たちが御国の民であることも覚えてください、とパウロはピリピ教会の人たちに伝えたわけです。

執筆中のパウロ

同じように、私たちは日本人として生活していますが、同時に天国の市民権を持つ者として、教会に属する者として、しっかりとキリストの福音にふさわしく生活するようにとパウロから、神から勧められています。御国の民とされた私たちには天国に国籍があるという特権がありますが、でも義務や責任も伴うということです。これはパウロの手紙に一貫しているものだと思います。何よりイエスの教えです。キリスト者とはキリストに従う者のことです。

一人ひとりが福音にふさわしく、神の国の住民にふさわしく生活すると同時に、教会全体が霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、共に奮闘(27節b)することが求められています。一致が重要です。御霊の一致。心を一つにする。福音の信仰のための一致、もっと言えば福音の信仰の戦いのための一致です。奮闘するというのは「競争や戦いに従事する」という意味があります。北京オリンピックがもうすぐ終わりますが、日本の選手たちは本当によく頑張ったと思います。私たちが特に感動するのは、チームの勝利のために一つになっている姿です。原語の奮闘という言葉には「スクラムを組む」ような意味があるようです。ですから、部隊として、スクラムを組んで、隊列を組んで、盾と剣を持って前進していくイメージです。

信仰生活を送るのは戦いがあります。パウロは一緒にピリピ教会を開拓した弟子のテモテに晩年、手紙を送りこのように書いています。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。(Ⅰテモテ6:12)

キリスト者になるということは、元々は神の敵であった者が、神の側につくことです。悪魔の味方であった者がそこを離れ、神の味方になることです。ですから、この罪の世を脱出すると、この世の神である悪魔は怒ります。そしてキリスト者と教会を攻撃してきます。ですから、私たちはこの世を出て神の国に国籍があるクリスチャンとして覚悟をする必要があります。何を覚悟するのか。キリスト者になるということは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです(29節)と書かれているように、苦しみにあうことを覚悟しなければなりません。この時代、パウロとピリピ教会は迫害されました。現代も同様です。多くのクリスチャンが迫害されています。アフガニスタン、北朝鮮、中国、ミャンマー、インド、ナイジェリアなど。

「オープン・ドアーズ」という国際的な宣教団体がありますが、2022年の最新版で、「少なくとも世界中に3億6千万人のクリスチャンが深刻なレベルの迫害にあっている」と報告しています。ワースト1がアフガニスタン、ワースト2が北朝鮮です。今の日本では迫害はないかもしれませんが、反対者がいるでしょう(28節)。パウロはテモテに書いています。 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(Ⅱテモテ 3:12)

あなたがた、ピリピ教会の皆さんは、私パウロについて先に見たことを思い出してください(30節)。私たちが最初、ピリピの町に来た時に、迫害され、牢獄に入れられたのをあなたがたはよく知っているはずです。また今、私が牢獄にいることもあなたたちは知っています。それと同じような戦いをあなたがたは今、経験しているのです、とパウロはピリピ教会の人たちを励ましています。

私たちの人生にも戦いがあります。場合によっては反対者がいます。そのような時、どのように戦えば良いのでしょうか?3つお伝えします。

①敵を知る

敵は人間ではありません。敵は悪魔です。ロシアがウクライナに侵攻するかもしれないと報道されていますが、戦いは目に見えない世界でも起こっていることを知らなければいけません。聖書は言います。敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(Ⅰペテロ 5:8)。ですから私たちは堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。

パウロはエペソ人への手紙6:11,12で書いています。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

悪魔は福音が前進し、人々が救われるのを嫌います。あらゆる方法を通して、人々をこの世に、罪と罪の支配下にとどめようとします。罪の結果は死です。霊的な死、滅びです。悪魔と悪霊はそこに自分たちが行くことを知っているので、多くの人たちを道ずれにしようとしています。ですから、この世の栄華を見せて、永遠ではなく、一時的なものに目を奪わせようとします。私たちは悪魔が活発に働いていることを覚え、目を覚ましていなければなりません。

②一致 

御霊の一致と心を一つにすることが大切です。動物番組で、ライオンなどの肉食動物が草食動物を狙う時に、弱い動物たちが協力してライオンに立ち向かって撃退し、追い払うのを見たことがあります。一致には力があるということです。

一致を妨害しようとするのは分裂分派の霊です。日本のキリスト教界はこれが強いです。おそらく日本にリバイバルが起こらない最大の理由がこれではないでしょうか。悪魔は私たちクリスチャンが一致することを嫌います。なぜなら、一致するなら教会が大きな働きができることを知っているからです。だから、クリスチャンたち対して働きかけ、共通点に目を向けさせるのではなく、違いに目を向けさせるようにし、クリスチャンたちと教会が分裂するように現在進行形で働いています。私たちは使徒信条の信仰告白とイエス・キリストの福音の前進という一点において、一致することができると信じています。パウロは間違った動機で福音を宣べ伝えている人たちがいたにも関わらず、とにかくキリストの福音が伝えられているなら良しとしよう、という広い心を持っていました。

③ゴールを見続ける 

この世の魅力、誘惑、試練によって、私たちは目をそむけさせられることがあります。ジョン・バニヤンが著書『天路歴程』の中で、「落胆の沼」と表現しています。クリスチャン生活で祝福はもちろんありますが、祝福だけではありません。苦しみもあります。人は、自分の理想と違うと「落胆」してしまいます。場合によっては、沼にはまり沈んで、抜け出ることができなくなってしまいます。天路歴程の主人公である基督者は天を目指す旅の友になった柔順者と一緒に旅をしていましたが、二人は「落胆の沼」に落ちてしまいました。すると、柔順者はすっかり天への旅が嫌になってしまい、旅をやめ、自分の家に帰ってしまったのです。

ジョン・バニヤン

一度この罪の世を出ても油断はできません。ジョン・バニヤンが「落胆の沼」で表現しているように、落胆、試練、困難などを通して、クリスチャンの信仰を揺さぶり、信仰から、神から、教会から、引き離そうとする力が働いていることを覚えておく必要があります。

私たちの人生には、私たちの働きには、苦しみがあり、戦いがあります。それは使徒パウロが経験したものであり、ピリピ教会が体験したものです。彼らは私たちの前を走り、戦い抜き、今はゴールで私たちを待っています。私たちもこの信仰のレースを一致して協力して戦い抜き、そして信仰の完成者であるイエスを見続けて、前進していきましょう。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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