17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙 3:17-21)
キリスト教関係の墓地の中で、墓碑銘のトップは、「私の国籍は天にある」ではないかと言われます。天国に希望があります。
17節の「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」の「私たち」とは、パウロやテモテやエパフロデトのことです(2:19-30)。彼らを手本として歩んでいるピリピ教会の指導者たちに倣うようにとピリピ教会の人たちに勧めています。イエス・キリストを模範にするようにという勧めはよくありますが、パウロはあえて自分を模範にしてください、と書いています。これを言うのはとても勇気がいることですね。
イエス・キリストは唯一完全なお方です。私たちがイエスに倣うということはある意味不可能です。しかし、パウロは私たちと同じ人間で不完全な者です。パウロは自分が完全になったとは思っていません、自分はまだ途上にある者で、イエス・キリストを追い求めている者です、イエス・キリストの十字架と復活を知りたいのです、と告白しています。パウロのそのような生き方、真剣な歩みを私たちは模範にすることができます。
パウロがこのように書いたのは、ピリピ教会にはキリストの十字架に敵対して歩んでいる人たちが多くいたからです(18節)。これは決して彼らがイエスを信じてなかったという訳ではなく、クリスチャンであったけれども、十字架の精神を裏切り、自分の欲望や自分が願うままに生きている人々がたくさんいたということです。イエス・キリストの十字架によって、どうせ罪が赦されるなら、罪を犯した方が得なんじゃないかという歪んだ誤った考えを持っている人々がいたわけです。ここでパウロが念頭に置いているのは、キリストにある自由を、自分勝手にしたいことをする放縦へと変えてしまっていた人々のことだと思います。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)
ここに2種類の模範が出てきます。十字架に生きたパウロたちと十字架に敵対した人たちです。私たちはパウロのように十字架の苦しみをも引き受ける歩みをしていきたいと思います。それが真のキリスト者の歩みです。そうするなら、私たちはキリストの復活の力を体験できるようになると信じています。
十字架の敵として歩んでいる人たちの思い、関心は地上のことだけでした(19節)。けれども、パウロの思いと関心は、天にありました。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい(コロサイ人への手紙 3:2)。地上のものは全て一時的で過ぎ去っていきます。しかし、天のものは変わらずに永遠のものです。この地上でよく使われる永遠という言葉は、軽い言葉のように感じます。それは本当の永遠ではありません。せいぜい100年ぐらいのことを意味して使っていることが多いでしょう。
執筆中のパウロ
けれども、私たちの国籍は天にあります(20節)。私の国籍は日本です。これは自分の努力で得たわけではありません。私に日本国籍が与えられたのは、両親が日本人であり、また私が日本で生まれたからです。クリスチャンに天国の国籍が与えられるのも同じです。私たちの努力で天国に国籍が与えられるわけではありません。イエス・キリストを信じて新しく生まれることによって、神の子供とされ、天に国籍が与えられます。これは私たちの努力ではなく、神の恵みと信仰によります。イエスが言われました。ヨハネの福音書3:3「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 私たちは地上に国籍がありますが、天にも国籍があるとは何と素晴らしいことではないでしょうか。
日本国籍を持っていることには大きな特権があります。日本人であることによって、日本政府は日本人を特別に扱います。ロシアがウクライナを攻撃した時に、日本人救出のために日本政府はチャーター機を用意したと報道されていました。天国に国籍があるということは、凄いことですね。神が私たちを特別に扱ってくださるということです。ですから、私たちキリスト者には二つの国籍があります。この地上に国籍があり、天にも国籍があるということです。
埼玉県で牧師をしていた時に、Nさんという方(男性、80歳)が教会に来られました。なぜか、来られた当初から私にお葬式を頼みたいと言っておられました。ご病気ということもあり、4年間来たり来なかったりでしたが、定期的に礼拝に来られていました。でもイエス様を信じて救われないと私も自信を持ってお葬式ができないなと思い、Nさんがイエス様を信じるようにと祈っていました。ご自宅を訪問し、Nさん&ご家族とお話をすることもありました。礼拝中に倒れ、救急車を呼んだこともあり、冷や冷やとすることもありました。そして、ついに病気が悪化し、病院に入院されました。私はお見舞い&祈りに行きました。短い時間ですが、話をする機会があり、福音を伝えました。でも意思疎通が難しくなっていて私は焦ってきました。そして霊的な戦いの祈りをし、サタンに手を引くように祈りました。すると、神が介入され、Nさんと短くですが、会話をすることができ、Nさんを救い&信仰告白へと導くことができたのです!それから、しばらくしてから、亡くなりました。亡くなる直前に、祈ってあげて欲しいと、奥様や長女の方からお電話をもらい、病院へ駆けつけました。そしてNさんの死に立ち会うことになりました。とても厳粛な気持ちがしました。そこで、ご家族から亡くなる前日、Nさんは天を見上げて笑ったんですよ、とお聞きしました。お迎えに来た天使を見たのかもしれませんね。とても印象に残ったようでした。
Nさんの家は仏教で、ご家族の中に誰もクリスチャンはいませんでしたが、でもNさんの言葉に従って予定通り、私が前夜式とお葬式の司式をさせていただきました。Nさんのご家族が集まりましたが、皆ノンクリスチャンでした。前夜式はNさんの家、お葬式は教会でしました。そこで私が語ったのが「私たちの国籍は天にあります」というみことばです。Nさんの国籍は天にあります、というメッセージです。私たちには希望があります。イエス様を信じて天国へ行くなら、Nさんに再会できるという慰めと希望を語りました。
また、天に国籍があるということは、天国の市民らしく歩みなさい、というメッセージがあります。ピリピという町は、ローマの植民都市でした。住民の多くは、ローマの市民権を持っていたでしょう。ローマの市民権を持っているということは、ローマ人らしく歩むことが求められていたということです。同様に、天国に国籍があるということは、どういうことでしょうか。キリスト者は天国人らしく歩むことが神によって求められているということです。
私たちはこの地上では旅人であり、寄留者です。外国にいる移民のような者とも言えます。ウクライナの人たちは他の国へ移民となっています。でもまたウクライナへ戻ることを願っているでしょう。私たちの本国、故郷は天国です。そこから、すなわち天から、救い主イエス様が再臨されるのを私たちは待ち望んでいます。その時に神の国、救いが完成します。
その時に何が起こるのでしょうか。私たちの体は復活の体へと変えられるのです(21節)。ここで私たちの体、肉体が卑しい体と表現されています。これは腐っていくもので、死んでしまう体であるということです。肉体は土に帰って行きます。人は土から取られたからです。最初の人アダムは土地のちりで神に造られ、鼻にいのちの息を吹き込まれ、生きたものとなりました。
肉体それ自体が悪というわけではありません。アダムの罪によって、人間の肉体は卑しい体、死ぬべき体になってしまったのです。しかし、私たちには希望があります。この卑しい体を、神が「栄光のからだ」に変えてくださいます。それはいつ起こるのか。イエス様が再臨される時、世の終わりの時に起こります。
Ⅰコリント15:47-52 第一の人=アダム 第ニの人=キリスト
47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。49 私たちは土で造られた者のかたを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
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