「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイの福音書3章8節)
これはバプテスマのヨハネが語った言葉です。バプテスマのヨハネとは、イエス・キリストが登場する道を備えた人で、名前の通り人々に水の洗礼を授けるのが主な仕事でした。約2000年前の人物ですが、その当時イスラエルで超有名人でした。その彼が、自分の罪を告白して洗礼を受けに来る大勢の人々に語ったのが、上記の言葉です。
彼の言葉が意味したのは、「自分の失敗に対して悲しんだり後悔するだけではいけません。罪を告白するだけでは十分ではありません。罪を告白しても罪を犯し続けるなら間違っています。口先だけではいけません。罪を捨て去りなさい。悔いるだけではいけません。悔いて、改めなさい。罪を放棄する決心をしなさい。方向転換しなさい。良い実を結びなさい。償いをしなさい。生活を変化させなさい。そのことによって罪を悔い改めていることを証明しなさい」ということでしょう。
悔い改めとは、聖書では180度心の向きを変えることを意味しています。これは私たちの人生においてもとても大切なことではないでしょうか。本当に良い人生を送るためには、罪を告白するだけでは十分ではありません。懺悔するだけでは不十分です。古い生き方を改めて、新しい生き方をしなければならないでしょう。悪を離れて神に立ち返り、その結果として神に喜ばれる生活と行動へと変わることが、真の悔い改めです。イエスは「木のよしあしはその実によって知られるからです」(マタイの福音書12章33節)と語っています。
洗礼そのものが悔い改めなのではありません。罪を悔い改めた証拠として、洗礼を受けるのが正しい順序と言えます。要するに内側の変化が外側の変化に先行するということです。見かけだけを変えることに対してバプテスマのヨハネは警告したわけです。決して社会的実践や倫理的実践が足りないと指摘したわけでもありません。そうではなく、内面(心)を変えること、もっと言えば自分という全存在を変えていくことが重要であると訴えたのです。
同じ出来事が記されているルカの福音書には、話の続きがマタイの福音書よりも詳しく書かれています。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」というメッセージを聞いた群衆は「私たちはどうすればよいのでしょう」(ルカの福音書3章10節)とヨハネに尋ねます。ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(ルカの福音書3章11節)と答えました。これは意外と単純なことではないでしょうか。ヨハネは決して持っている下着二枚、食べ物全部を全て分け与えなさいとは言っていません。下着を一枚も持っていない、食べ物が全くないような本当に貧しい人々に分け与えなさいと言っています。もしこれが現在世界で実行されていれば貧しい人々は今よりも驚くほど少なくなるのではないでしょうか。
世界で貧富の差がますます拡大しています。フランスの経済学者トマ・ピケティは2013年に刊行した著書「21世紀の資本」でそのことを明らかにしています。格差が拡大している現代社会において富の分配は、重要なテーマの一つと言えるでしょう。ピケティ氏は、貧困国が富裕国に追いつくには、「知識の普及」が欠かすことができないと述べています。現代においては、下着や食べ物を分け与えることに加えて、知識をも分け与えることが大切だと思います。
ピケティ氏は、このままでは格差はますます拡大していくことを指摘しています。なぜなら21世紀に入って、過去に蓄積されたお金(主に相続財産)の利子などで得る富が労働賃金よりも収益率が高くなっているからです。彼は解決策として資本の額に応じて徴収する年次累進税を提案しています。それには高度な国際協力が必要となるようです。そうであるなら、このように世界が対立している中では貧困が政治によって解決するのは難しいのかもしれません。
多少でもお金がある一人一人がバプテスマのヨハネの言葉に従って貧しい人たちに援助の手を差し伸べるというシンプルな実践と世界的な草の根運動によってより良い社会を作り出すことができると信じます。
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