イエスが十字架上で語られた7つのことば

イエスが十字架に架かったのは午前9時で、息を引き取ったのは午後3時です。6時間十字架に架けられていましたが、イエスが十字架上で発したおことばが聖書に7つ記録されていますので、見ていきたいと思います。

14世紀イタリア絵画最大の巨匠ジョット・ディ・ボンドーネの代表作                    『十字架上のキリスト』

1.赦し

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカの福音書23章34節) 

聖書を見ると、二人の犯罪人がイエスを真ん中にして右と左に十字架につけられていたことが分かります(ルカ23:32,33)。道を行く人々、祭司長や律法学者、長老たちもイエスをあざけっていましたが、最初はこの強盗二人もイエスをののしっていました(ルカ23:39)。しかし、イエスは極限状態であったにも関わらずに、呪いや恨み、憎しみの言葉ではなく、愛と憐れみに満ちた「彼らをお赦しください」ということばを発し、敵のために祈られたのです。

イエスは山上の垂訓で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と話されましたが、聞いて群衆は不可能であると思ったに違いありません。しかし、イエスは自分が語ったことをご自身で極限状態の中で実行されたのです。イエスは、教えと人格、行為とわざを通してもご自身が救い主であることを証明されました。

この「赦し」の言葉と祈りを聞いた一人の犯罪人は、心を動かされ、心を入れかえました。彼は自分の真の姿とイエスの真の姿に気が付き、目が開かれました。イエスを罵り続けたもう一人の犯罪人に向かって言います。「おまえは神をも恐れないのか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」(ルカ23:40,41)とイエスの無罪を告白宣言し、イエスのことを正しく評価しました。

しかし、もう一人の犯罪人は最後まで変わりませんでした。二人ともイエスの近くにいたにも関わらず、イエスの祈りと言葉を聞いたにも関わらず、全く違う結果となりました。罪がある人は罪を赦すことはできません。罪がない人だけが罪を赦すことができるのです。この犯罪人は、罪を犯さなかった唯一のお方イエスを通して、罪の赦しを受け取ったのです。

2.救い

あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23章43節)  

罪の赦しを受け取った犯罪人はイエスに言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42) それに対してイエスが言われました。「まことに、あなたに言います。」(43節) これははっきりと保証して言います、確実に起こることです、ということです。「あなたは今日、わたしとともにパラダイス(天国)にいます

天国は聖い国です。罪があっては入ることができません。例えば、一日に(とても少なく見積もってですが)3つの罪を犯したとしましょう。1年365日で1,095回です。人生仮に80年とすると87,600回の罪になります。こんなに多くの罪を犯している私たち人間は心が汚れていて、本来誰も天国に入ることはできないのです。警察につかまっていなければ、日本では罪人と言われないかもしれません。しかし、人間は神に創られたので、本来神の法律を守らなければならないのです。神の法律は聖書です。私たち人類は誰一人神の基準に達することはできません。神は聖く、基準は高いですし、人は汚れ、心の中は邪悪だからです。

天国は、天の国、神の国です。ですからパスポートが必要です。海外旅行で他の国に入国するために絶対に必要なのはパスポートです。他のものを全て忘れても、他のものが全部なくても、パスポートさえあれば大丈夫です。その国に入ることができます。しかし、他のものがいろいろあっても、パスポートがなければその国に入ることはできません。私たちがどんなに自分の実績を税関で伝えても、自分には国に入る資格があると訴えても、パスポートがなければ入れません。

その際の注意点は、国が発行したパスポートでなければならないということです。自分が作り出した偽造パスポート(良い行い、宗教、哲学、道徳、名誉、地位、学歴、肩書、財産など)はその時には何の役にも立ちません。同様に天国の税関で天使に聞かれるでしょう。「あなたのパスポートを見せてください」と。聖書は天国へのパスポートはイエス・キリストであると教えています。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネの福音書14:6)

この十字架にかかっていた犯罪人は神の前での罪の赦しを受け取りました。彼はこの後十字架で死んだので、罪人として良い行いをするチャンスはありませんでした。しかし、彼はイエスによって神の前では無罪とされたので、聖い者として天国へ入ることができたのです。彼は神の恵みによって救われたのです。もちろんこの地上では罪人として有罪の報いを受けなければなりませんでしたが。

3.愛情

女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」(ヨハネ19:26) 「ご覧なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:27)

マリヤは息子イエスが十字架に架かっている姿を見て、心が剣で刺し貫かれていました。これはシメオンが語った預言の成就でした(ルカ2:35)。イエスは自分が死んだ後の母の身を案じて、イエスが愛した弟子のヨハネにマリヤを託します。イエスは母マリヤに「あなたは息子を失いますが、ヨハネが私の代わりにあなたの息子になります」と言われたのです。ヨハネはイエスが十字架で死んだ後、イエスの母マリヤを自分のところに引き取りました(ヨハネ19:27)イエスの母に対する愛情を感じます。

4.苦悩

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイの福音書27:46)

お昼になると、全地が暗くなり、午後3時まで続きました。神の裁きが起こる気配がします。午後3時頃、イエスは大声で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。これは詩篇22:1のダビデの歌から引用したものです。魂の苦悩、神から断絶され、神から完全に引き離された苦しみの叫びです。

どうしてイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。なぜなら、イエスは人類の罪の身代わりに神によって裁かれたからです。今までは「父よ」と祈っていたイエスでしたが、ここでは「父よ」と祈ることができませんでした。この時、イエスは神に完全に見捨てられた罪人として十字架に架かっていたからです。呪われた者として十字架に架けられていたのです。

全時代の全人類の罪ですから、どれほどの重罪人としてイエスは十字架に架かっていたことでしょうか。イエスは神に裁かれ見捨てられたのです。本来私たちが犯罪人として、神から完全に断絶された場所で、この叫びをしなくていいようにイエスが代わりに叫んでくださいました。コリント人への手紙第二 5章21節に書かれている通りです。神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方(イエス)にあって神の義となるためです。 私たちの立場がイエスによって交換されるのです。

十字架において、イエスと父なる神の両者が痛み、苦しみました。イエスは十字架の苦痛と死、神と人に見捨てられた孤独に苦しみました。父なる神は子であるイエスを裁き、捨て置き、介入して救うことができない喪失に苦しんだと思います。この時の父なる神の苦しみと痛みはどれほどのものだったでしょうか。我が子を失う苦しみは想像を絶するでしょう。でも人類の救いのために神はイエスの悲痛の叫びを聞いても介入することはありませんでした。ここに神の愛を見ることができます。

5.苦痛

わたしは渇く。」(ヨハネの福音書19:28)

「どうして私をお見捨てになったのですか」というのは、イエスの魂の苦悩を示しています。一方、「わたしは渇く」というのは、イエスの肉体の苦痛を表しています。神は魂と体も共にゲヘナで滅ぼすことのできるお方で、律法による苦痛は心と体の両方に影響を及ぼすからです。

イエスは私たち本来が自分の罪のために天国に入れず地獄(火と硫黄の池)で喉が渇き、「私は渇く。水を下さい。」と言わなくてよいように、イエスが身代わりにこの言葉を発して下さいました。

6.勝利

完了した。」(ヨハネの福音書19:30)

これは勝利の叫びです。旧約の預言が成就し、罪の負債が支払われました。罪と罰、呪いと死、悪魔の力が砕かれ、滅ぼされました。救いのみわざが完了したのです。英語では「It is finished」(終わった)です。罪が終わり、罪の罰が終わり、呪いが終わり、死が終わったのです!悪魔が打ちのめされたのです。私たちは解放されたのです。救いが完成し、完全な救いが与えられたのです。

イエスの地上での働きと使命が完全に果たされました。宗教と道徳は下から上へ向かい、神に認めてもらおうとします。人はどんなに頑張って努力しても、神の救いに到達できません。人は不完全だからです。ですから、神であるイエスが上から下へ降りて来てくださいました。これがクリスマスのメッセージです。神であるイエスが、人間の赤ちゃんとして(受肉して)、この地上に来てくださったのです。救いは神による一方的な恵みです。私たちの功績は何一つありません。救いはもうすでに完了しています。あの強盗のように差し出されている救いを受け取るだけで、罪が赦され、天国への道が開かれます。私たちもイエスを通して圧倒的な勝利者となることができます(Ⅰコリント15:57)。

7.満足

父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)

イエスはどんなに苦しくても、神が不在であるように思えても、父なる神を絶対的に信頼しておられました。ゲツセマネの園でも祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42) イエスは神の御心を最後まで行い続けたのです。神に全てをゆだね、明け渡し、息を引き取られました(ルカ23:46)。

神のご計画は大きく、深いです。人は近視眼的になりがちで、目先のことで頭がいっぱいになります。しかし、神は私たちの人生を長期的に見てくださっています。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章9節)と書かれている通りです。神は全てを働かせ益としてくださると神を信頼し、神に完全に明け渡し、ゆだねきった人生は幸いだと思います。そのような人は不安ではなく平安のうちに人生を歩むことができ、安心と満足のうちに人生を全うすることができるでしょう。

イエスは十字架を避け、十字架から逃れることができましたが、自ら進んで十字架に架かってくださいました。それは、人類の罪の身代わりに十字架で体を裂かれ、血を流し、贖い(救い)を成し遂げるためです。ここに神の愛を見ることができます。

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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