食べてはいけないと命じられていた善悪の知識の木の実を食べ罪を犯したアダムとエバは、主の御声を聞きました。それで二人は神の御顔を避けてエデンの園の木の間に身を隠しました。聖書にはこのように書かれています。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3章8,9節)
彼らが身を隠したのは、いたずらをして父に叱られると思うと急に父が恐ろしくなり、父の顔を避けて自分の部屋に閉じこもるようなものかもしれません。しかし、神から隠れることはできません。神は遍在されるお方です。すなわち、神はどこにでもおられます。ダビデは歌いました。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。(詩篇139:7-10)
神は全てを見ておられます。神の前に隠されていることは何一つありません。良いことも悪いこともです。誰にも知られていないかもしれませんが、あなたが神と人のために真実な心でした様々なことを神はご覧になって喜んでおられます。反対に、誰にもばれていないかもしれませんが、あなたが隠れてしている罪、ごまかしている罪を神は見て知っておられ悲しんでいます。この時から人間には悪いことをすると隠してしまう隠蔽体質があることが分かります。しかし、最後の裁きの時に、今は明らかにされていないかもしれませんが、その日が来れば全てが明らかにされます。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(コリント人への手紙第二 5章10節)
人間の目に隠すことができても、神の前に隠せることができるものは何一つありません。今までしてきてしまった悪いことはもう仕方がないとしても、今日からの人生は私たち次第で変えることができます。私たちが神の目に喜ばれる生活を送ることができますように。神を悲しませることが少なくてすみますように。今日からやめるべき悪い習慣はないでしょうか。また今日から始めるべき良い習慣はないでしょうか。
神はアダムとエバを裁こうとして「あなたは、どこにいるのか」と仰ったのではありません。神はアダムとエバがどこにいるかをもちろんご存じでした。しかし、罪を犯して恥を隠そうとしている彼らに救いを与えようと思い、呼びかけられたのです。「あなたは、どこにいるのか。わたしの元に帰って来なさい」と。
この呼びかけは現代に生きる私たち一人ひとりにも語られている神からの言葉です。イエスが話された放蕩息子のたとえ話のようです。放蕩息子は自分勝手に生きるためにお父さんの元を離れ罪を犯しました。それはちょうど神に背いたアダムとエバのようです。しかし、この父親は息子を愛し、「あなたはどこにいるのか」とずっと帰りを待っていました。反省し悔い改めてお父さんの元へ戻ったこの放蕩息子は、お父さんの愛、すなわち神の愛と祝福を存分に味わうことができました。聖書にはこのように記されています。
『放蕩息子の帰還』(1666-1668年頃) /レンブラント作 (エルミタージュ美術館) オランダ絵画黄金期最大の巨匠レンブラント・ファン・レイン晩年の代表的な宗教画作品のひとつ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(ルカの福音書15章18-24節)
感動的です。神の愛は驚くほど深いです。あなたはどこにいるでしょうか。神はあなたが帰って来るのを待っておられます。あなたが悔い改め、神の元へ立ち返る時、神はあなたを喜んで迎えてくださり、神の子と認めてくださり、神の子が相続できる天の祝福を豊かに注いでくださいます。神の元へ帰っている人は、罪人である自分と罪が赦されて神の子とされている自分の両面を常に意識し、神の前にへりくだりつつ、同時に神の子とされていることに自信を持って歩んでいきましょう。
スポンサーリンク