パウロはピリピ教会の二人の姉妹に一致を勧めた後(ピリピ4:1-3)、キリスト者が日常生活でどのようにあるべきかを書き記しています。
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙 4:4-7)
パウロはピリピ教会の人々に「喜びなさい」と言います(4節)。「喜び」はピリピ書の大きなテーマです。この短い手紙の中に、10回以上も「喜びなさい」と出てきます。
喜びが環境に左右されているなら、私たちはいつも喜ぶことはできないでしょう。この神からの命令を守ることはできません。この手紙はパウロが獄中から書いていますが、パウロも当然感情的には自分が獄中にいることを喜ぶことができたわけではない思います。でもパウロは「主にあって」喜ぶことができました。「主イエス・キリストにあって」、イエス・キリストの中にあって、イエス・キリストとの生きた人格的な関係を持っていることによって、パウロは喜ぶことができたのです。このような喜びをパウロは自分自身が経験していたので、同じように、ピリピ教会の人たちにも体験して欲しいと願い勧めているわけです。現代の教会、私たちにも勧められています。
ここでの喜びは、周りの状況や環境に左右されない喜びを持ちなさい、ということです。実際、パウロが置かれていた環境は獄中で、最悪の状況でした。でもパウロは喜ぶことができたのです。条件が良い時だけの喜びというのは、長続きしません。なぜなら、人生には良くない時がありますし、必ずと言っていいほど試練がやってくるからです。喜べる時だけ喜ぶというのは、喜びの原因が私たちの外側にあるときです。喜びが外側からやってくるわけです。例えば、地位や肩書、世間の評判、人との比較など。このような喜びは周りの環境や周りの人々によって変わってしまう脆いものと言えます。
しかし、パウロが勧めている「喜びなさい」という命令は、喜びの原因を自分の(私たちの)内側に求めています。喜びが心の中から沸き上がってくるわけです。ピリピ教会には、日々起こって来る出来事によって一喜一憂して生活しているクリスチャンたちがいたのでしょう。そのような人の特徴は浮き沈みが激しいことです。うまくいっている時はハレルヤと主を賛美しますが、うまくいかなくなるとすぐに落ち込み、場合によっては教会から離れ、人によっては神からも離れてしまうわけです。
外側からの喜びを頼りにして生きていると、環境の奴隷、世論の奴隷になってしまう危険性があります。そこに本当の自由はありません。自由であるようで、実は自由でないのです。しかし、環境が悪くても、自分の内側から喜びが溢れるなら、それが本物の自由なのではないでしょうか。
もちろん、私たちは弱いですから、現実を見たら喜べない時が当然あります。しかし、心の底では喜ぶことができます。なぜなら、主イエス・キリストの中にある者とされ、主イエスとの人格的な関係があり、救いの喜びがあるからです。国籍が天にあり、いのちの書に名が書き記されていることを知っているので、私たちは喜ぶことができます。苦難の中にあっても喜べるのが本物の喜びだと思います。
聖霊が注がれる時に与えられるものの一つが「喜び」です。ガラテヤ人への手紙 5:22,23に 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。と書かれています。そしてローマ人への手紙14:17 には、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。とあります。
私たちがいつも喜べるのは、「主にあって」です。私たちは主イエス・キリストにあって喜ぶことができます。「主にあって」とはどういうことでしょうか?主イエスと人格的な生きた関係を持っているということだと思います。頭の知識ではない、心の深い部分で、霊の領域で主イエスと繋がっている、ということです。それは、イエス・キリストを信じ、主イエスに信仰を置き、キリストを信頼している状態です。このお方によって私の人生が支えられている、と確信しているわけです。それがこの「主にあって」という言葉に表されているのだと思います。
「あなたがたは迫害があるでしょう、いろいろとつらいこともあるでしょう、でもあなたがたは主イエスを信頼していますよね」、だったら、「主イエスにあって」喜んでください、と使徒パウロは、ピリピ教会に勧めたのです。これは現代の教会にも神が語られていることです。Ⅰテサロニケ5:16-18に いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神が私たちに望んでおられることです。とあります。
喜びを保つのに大事なのは、思い煩わないことです(6節)。では、思い煩ってしまったら、どうすればいいのでしょうか? パウロは書いています。聖書は言います。「祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(6節)
私たちは日常生活で様々なことを思い煩い、喜びを失ってしまうのではないでしょうか。その時に、私たちはその思い煩い、心配を祈りに変えていけば良いのです。小さなことでも大丈夫です。「あらゆる場合に」と書かれていますので(6節)。Ⅰペテロ 5:7に書かれています。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
まず私たちは感謝の心を持って祈ります。なぜ感謝できるのでしょうか。主は良いお方で、私たちを愛しておられ、最善をなしてくださると信じることができるからです。
私たちは祈って、自分の願い事を神に知っていただきます。これは声に出すということです。主イエスは盲人バルテマイに聞きました。「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコの福音書10:51) 彼は目が見えませんから、彼の願いは目が見えるようになることでした。これは当然ではないでしょうか。でも彼に口を開かせ、告白させます。バルテマイは答えました。「目が見えるようになることです。」(マルコの福音書10:51)すると彼の目は癒され、目が見えるようになったのです。
神との人格的な結びつきを強めていくには、神と会話をする必要があります。まず聖書を読みます。説教を聞きます。聖書を学びます。そのようにして神の言葉である聖書に触れ、神の言葉を聞き、神の願いや命令を知ります。
その後で、私たちは神に祈りを通して応答します。また自分の願いを知っていただきます。そうすれば、祈りは答えられます。神は私たちの祈りに応えてくださいます。「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(7節)
神からの平安が与えられます。不安が取り除かれ、ざわついていた心と思いが守られます。それは人間の思いや考えを超えたものです。主にあって、キリスト・イエスにあって、守られるのです。私たちは「主にあって」喜ぶことができ、「主にあって」守られます。
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