神に背き、悪魔の誘惑に負けて罪を犯したアダムとエバは、神から隠れました。神は「あなたたちは、どこにいるのか」と呼びかけられました。アダムは答えます。聖書にはこのように書かれています。
10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3章10-13節)
神から「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)と聞かれて、アダムは「私は裸なので、恐れて、隠れました」(10節)と答えました。すると、神は「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」(11節)と言って、アダムの罪を指摘しました。
するとアダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(12節)と答え、エバのせいにしました。責任転嫁をしたのです。まさにこれが人間の性質です。この態度は現代に生きる私たちも同じだと思います。アダムは以前は(新婚の時と言えるでしょう)エバのことを、「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」(創世記2:23)と言って喜んでいましたが、ここでは「この女」と言っています。かつてあった一体感が失われてしまいました。アダムは自分の罪をエバのせいにしていますが、もっと言えば「あなたが私のそばに置かれたこの女」(12節)と言っているので、自分の助け手としてエバを備えた神のせいにもしているのです。二重の責任転嫁です。私たち人間は誰でも自分の罪を認めたくない性質を持っています。そしてすぐに人のせいにして、自分を正当化しようとします。そういう意味で人間は昔から全く成長していません。いくら科学技術が発達しても人間そのものの性質は全然変わっていないのです。昔も今も人は神からの助けと救いを必要としています。
次に神は「あなたは、いったいなんということをしたのか。」とエバの罪を指摘すると、エバも自分の罪を認めないで、「蛇が私が惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(13節)と答え、蛇である悪魔のせいにしました。
神がアダムとエバの罪を指摘したのは、アダムとエバに悔い改めて欲しかったからだと思います。しかし、2人とも自分の罪を認めないで責任転嫁しました。もしもこの時に二人が悔い改めていたら、その後の世界はどのようになっていたのかなと思います。この問題は私たちとも大いに関係があります。その悔い改めのメッセージは、私たちにも向けられています。そのメッセージに応答するなら、良い結果が生み出され、様々なことが回復されていくでしょう。
イエスの宣教開始のメッセージは「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコの福音書1章15節)でした。バプテスマのヨハネは言いました。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(ルカの福音書3章7節)。私たちは自分の罪を認め、悔い改めの実を結ぶ者でありたいと思います。
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