3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。 4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。 5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(新改訳聖書 創世記1章3-5節)
神は完全な世界を創造されました(創世記1章1節、参考:https://canaan.blog/genesis-1-1)。しかし、悪魔の反逆と堕落によって地は呪われ、神の裁きが下りました(創世記1章2節、参考:https://canaan.blog/who-is-lucifer)。
そして3節から6日間にわたる神による再創造のみわざがはじまります(創世記1章3節~)。創世記1章1節と2節は、第一日目以前の状態であることが分かります。
神は光をご自身のことば「光、あれ」によって創造されました。詩篇33:6に書かれています。主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。光そのものが神の創造の結果です。第4日の太陽の創造に先立つ光の創造は、太陽に依存しない光の存在を示しています。これは神の栄光の光だと思います。都(天国)には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光の光が都を照らし、小羊(イエス・キリスト)が都のあかりだからである(黙示録21:23)。
「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです(コリント人への手紙第二 4:6)。 このことは、イエス・キリストを信じる者の心を照らす光が、第一日目に創造された光と同じ源によることを暗示しているのではないでしょうか。使徒パウロは天からの光によって回心しました(使徒の働き9:3)。
神が「光、あれ」と仰せられると、光ができました。神がことばを発せられるとそのことば通りになります。イエスが「黙れ、静まれ」(マルコの福音書4:39)と言われると、そのことばが実現し、嵐は静まりました。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ書55:11)と書かれている通りです。
イエスは光です。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った(マタイの福音書4:16) 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネの福音書1:5)。昔もそうでしたが、今も恐れと絶望感で座り込んでしまっている方々が多くいると思います。しかし、光であるイエスによって、私たちの心が照らされ、光が差し込み、生きる希望が与えられ、立ち上がることができるようになります。
神は光と闇、昼と夜とを区別されました。イエスは光であり、昼です。イエスは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12)
「夕があり、朝があった」という表現がされているのは、ユダヤの慣習では日没から一日が始まったからだと思います。イエス・キリストを信じる者は、たとえ今が夕(暗く困難な状況)であっても、必ず朝(明るくて解決される)が来ると希望を持つことができます。神の霊(創世記1:2)と神の言葉(創世記1:3)は共に働きます。今は混沌としていて、混乱があるかもしれません。しかし、神の霊である聖霊が働いてくださって、希望と光が与えられます。失望&絶望は希望に変わり、闇は光に変わります。マイナスはプラスに変わるのです。たとえ闇が覆っていても、神のことばには力があるので、神が「光、あれ」と命じられると、一瞬にして光が闇を切り裂き、暗やみは消え去ります。困難は大きく見えるかもしれません。しかし、神は困難よりも大きく偉大なお方です。神に希望を置きましょう。
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