コロナの感染で死のニュースを聞くことが多い昨今ですが、私たちは聖書を通していのちのニュースを聞くことができます。聖書にラザロが生き返った記述が出てきますので見ましょう。
1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。2 このマリヤは、主に香油を塗り、神の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましよう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。18 ベタニヤはエルサレムに近く、3キロメートルほど離れた所にあった。19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたがたにお与えになります。」23 イエスは彼女に言われた。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11:1-25)
イエスの友人であるラザロが死に、墓に葬られました。皆が絶望していました。死は私たちを深い悲しみに追い込みます。特に家族にとってはそうです。ラザロが死に、マルタとマリヤの姉妹は絶望していました。そのマルタにイエスは宣言したのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(25節)
この時マルタに求められていたのは、イエスを「よみがえり」そして「いのち」であると信じる信仰でした。一緒に同行していた弟子たちにイエスが望んでいたのは、彼らがイエスのことを死の征服者として信じるようになることでした。そのような信仰を持つことが現代に生きる私たちにも求められています。
「ラザロよ。出て来なさい。」(ヨハネ11:43)とイエスは権威ある声で命じました。すると、ラザロは生き返り、墓から出て来ました(ヨハネ11:44)。またイエスは私たち人類の罪の身代わりに十字架で死なれましたが、三日後によみがって死に打ち勝たれました。復活を通してご自身が神の御子であることを証明されたのです。イエスはイエス・キリストを信じる者に死に打ち勝ついのちを与えてくださることを約束しておられます。
3つのポイントをお伝えしたいと思います。
①人間の無力
現代の科学技術に見られるように、人間に力があるのも事実です。インターネットの発展によって世界で起こっているニュースをすぐ知ることができますし、海外に住んでいる人と簡単に連絡を取ることもできます。世界はどんどん小さくなっています。宇宙にまでも行くことができるほどです。しかし、大地震や土石流、台風、津波など自然の力の前では人間は無力です。人が造った堤防は破られ、家や車は流され、壊れてしまいます。人が一生をかけて築き上げてきたものが一瞬にしてダメになってしまいます。人には力があるようで、力がないというのが現実だと思います。
ヨハネ11章において分かることは、ラザロという人が平和に暮らしていた、ということです。しかし、彼は病気にかかり、死に対して無力でした。彼は病気で死んでしまったのです。今の世界、日本もそうです。コロナウィルスの猛威、爆発的感染により、感染し、重症化し、亡くなる人が増えています。ワクチン接種によって解決しようとしていますが、まだ収束が見えていない状況です。デルタ株は今のワクチンではそこまで防げるわけではないようですし、新しい変異したウィルスも出て来ています。まだまだウィルスとの戦いは続くのかもしれません。神の助けを世界も日本も必要としています。特に発展途上国はそうです。病院にかかることができない人、ワクチンを打てない人がたくさんいます。一日も早く収束して、いのちが守られるようにお祈りしましょう。
②死の現実
連日のコロナウィルスのニュースで改めて気づかされることは、人は必ず死ぬということです。今は大丈夫でも、いつか死は確実にやってきます。逃れることはできません。ラザロにも死がやってきました。そして墓に葬られました。私たちにもいつか必ず死はやってきます。絶対に逃れることができません。
③死に打ち勝ついのち
日本と世界に希望があるとすれば、「死に打ち勝ついのち」を受け取ることだと私は思います。ラザロが死んで葬れ、4日が経過している所にイエスが来られました。絶望していたマルタにイエスは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
イエスはラザロを生き返らせることを通して、ご自身が死を征服できることを証明されたのです。イエスがこの世界に来られた目的は、復活を通して人類最大の敵である死を滅ぼして、私たちに永遠のいのちを与えるためです。イエスが私たちに与えて下さるいのちは、死に打ち勝ついのちです。
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