神の恵みの賜物 エペソ人への手紙 3:1-13(聖書)

私たちにはたくさんの「恵み」が神から与えられていますが、大きく分けると3つの恵みの賜物(贈り物)があると思います。恵みとは、本来祝福を受けるに値しない者に注がれる神の愛のことです。

1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の努めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。

5 この奥義は、今は、御霊におって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。

10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。(エペソ人への手紙 3:1-13)

第一の恵みは、救いです。

18世紀のイギリスにジョン・ニュートン(1725-1807年)という人がいました。彼は黒人の奴隷貿易に関わり、黒人をひどく扱うような人物でした。しかし、彼の人生に転機が訪れました。

彼の乗っていた船が嵐に遭い、船は損傷し、破損した船体の部分から海水が流れ込み、ついには転覆しそうな危機に陥ったのです。いのちさえも危うくなり、彼は人生で初めて神に真剣に祈りました。絶望的な状況が長い時間続きましたが、彼の祈りは答えられ、強風が次第に弱まり、浸水もおさまっていったのです。沈没の危機から救われました。彼は良心の呵責を覚えて、黒人の奴隷貿易から身を引きます。そして自分を救い出してくださった神に仕えるために牧師になりました。

ジョン・ニュートンは自分の人生になされた驚くべき神の恵みに感動して、感謝しつつ、讃美歌の中でも最も有名な曲と言っても過言ではない「アメイジング・グレイス(驚くべき恵み)」を作詞しました。内容は、「何という驚くべき恵み!私のような惨めな者が救われるとは!私はかつては失われていたが、今は見い出されている。以前は盲目だったが、今は見える。」というものです。

ジョン・ニュートン

アメイジンググレイスで思い出すのは、私が神学生時代、授業の前に賛美の時間があったのですが、その時に学生たちがアメイジンググレイスを賛美していました。すると、賛美の途中で、校長先生が出てきて、賛美を中断させ、私たち学生にこう言いました。「皆さん、本当に驚いていますか?驚いていたらそんな歌い方にはならないでしょう?」と言って、独唱されました。おそらく先生一人の声の方が私たち学生全員の声よりも大きかったのではないでしょうか。昨年お久しぶりにお会いしましたが、独唱と説教をされました。その時、先生は89歳でしたが、今もお元気で、主に仕えておられます。情熱的に神に仕え続けている姿にとても励まされました。

パウロ自身が神の恵みを体験していました。パウロは、かつてクリスチャンと教会を迫害する者でした。しかし、ダマスコ途上で主イエスにお会いし、彼はイエスを自分の救い主として信じ、洗礼を受け、救われました。まさに神の恵みだったのです。宗教改革者マルチン・ルターは言いました。「救いはただ恵みによる」と。一方的な神の選びと恵みによって、パウロは救われました。

私たちもかつては罪の中に死んでいました。神と戦争状態にありました。しかし、あわれみ豊かな神が、大きな愛を私たち一人ひとりに注いでくださり、御子イエスをこの地上に遣わしてくださいました。主イエスが私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださったのです。イエスを信じて、私たちも救われ、神との敵対関係が終わり、今では神との平和が与えられています。救いのみわざは、神の一方的な選びであり、恵みです。ですから、私たちには感謝しかありません。私たちは毎週、その救われている感謝を礼拝を通して神に表現しているわけです。

パウロの回心

第二の恵みは、神の家族である教会に加えられていることです。

異邦人である私たちが、ユダヤ人と共に一つのからだに連なることになりました(6節)。一つのからだとは、教会のことです。神は、二つのもの、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを、「新しいひとりの人」に造り上げました。両者を「一つのからだ」とされました。このからだとは、「キリストのからだ」「教会」です。教会のかしらは、イエス・キリストです。

教会生活の中に、日常生活の中に、神の恵みが注がれています。私たちは、主イエスを信じる信仰によって、神に近づくことができます(12節)。どのようにして神に近づくのでしょうか?私たちは祈りを通して神に近づきます。その時に大事になるのが、「イエス・キリストのお名前」です。私たちは自分の力で神に近づくことはできません。

私たちは、以前は神に遠い者でしたが、今は違います。神に近い者とされています。それはイエス・キリストの十字架を通して、隔ての壁が打ち壊されたから、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂けたからです。そして至聖所への道、すなわち神への道が開かれたのです。異邦人は至聖所はもちろんのこと、聖所にすら入ることができませんでした。異邦人が入ることができたのは、庭でした。それも異邦人専用の庭です。

私たちは「神の宮」である教会に礼拝を捧げるために集まっています。教会堂がユダヤの神殿だとすると、庭に相当するのは、駐車場でしょう。ですから、異邦人は礼拝に来ても、教会堂にすら入ることができなかったわけです。では聖所はどこか?教会堂の玄関や階段に入ることができるけど、礼拝堂に入ることができない。そんな感じでしょうか。至聖所が礼拝堂と言えるでしょう。

ルターの宗教改革で強調されたのは、「救いはただ恵みによる。信仰のみによる」ということでした。そしてもう一つは「万人祭司」です。あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです(Ⅰペテロ 2:9)。それまでは、司祭を通してしか、神に近づくことができないと教えられていました。でもそれは事実ではありません。それは旧約時代の話です。今は新約の時代です。私たちクリスチャンは皆、祭司にされています。

誰でもイエス・キリストのお名前によって、神に近づくことができ、祈ることができます。私たちは主イエスの十字架を通して、罪が赦され、神の子とされているので、また内に聖霊がいてくださるので、父なる神に向かって、親しく「お父さん」「アバ、父よ」と呼ぶことができます。それも大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(へブル人への手紙 4:16)。

恵みとは無条件で与えられるものです。普通は、これだけ働いたからこれだけの報酬が与えられるとなります。でも恵みは違います。私たちが信じる神は気前がいい神様です。私たちが求めるなら、与えてくださるお方です。ですから、ますます大胆に神に近づいていきましょう。

マルチン・ルター

恵みの第三は、福音宣教の働きです。

パウロは2節で、「神の恵みによる私の務め」と言っています。パウロは自分のことを1章では使徒パウロと紹介していました。使徒とは遣わされた者ということです。3:2では自分のことを「キリストの囚人」と表現しています。

多くの人はパウロのことを、ローマの囚人と見ていたでしょう。実際にそうでした。しかし、パウロ自身は、自分のことをローマの囚人というよりも、キリストの囚人と見ていたのです。パウロは、自分は牢獄につながれているのではなく、キリストにつながれていると考えたのです。そのことを恥じているのではなく、誇りとしていました(13節)。私が受けている苦難のゆえに落胆しないでください、と書いています。

指導者のパウロが牢獄に入ったことは、クリスチャンと教会にとってつまずきとなったと思います。ある人たちは教会から離れ、信仰を捨てたでしょう。なぜなら、福音が祝福ではなく、わざわいをもたらしたと感じたからです。これはこの時代だけの問題ではありません。現代においてもよく問われるものです。神がいるなら、なぜこんなことが起こるのかと?私たちには分からないことがたくさんあります。天国に行ったら教えてもらいましょう。

パウロは他の獄中書簡であるピリピ人への手紙 1:12では、私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。と書いています。牢獄で福音の力によって、パウロを通して救いのみわざが起こりました。ですから、私たちが試練に遭う時、そこにも神の計画があることを私たちは覚えたいと思います。その時はつらいのですが、試練を通して、最終的には福音が前進する神の計画があると信じます。

執筆中のパウロ

恵みと共に「神の力」によって働きができます(7節)。エペソ1:19で見ましたが、神の全能の力の働きです。信じる者に働く、神の力、復活の力です。私たちは神の恵みに感動しているでしょうか? 神の力を体験しているでしょうか?

もし私たちが神の恵みに感謝し、神の力を今も体験しているなら、パウロのように福音に仕える者として働きができるでしょう。神の恵みが必要なのは、救いや日常生活と教会生活だけではありません。福音宣教の働きにおいてもそうです。パウロは神の恵みによって神から務めが与えられていました。

現代において、神のご計画の中心は、教会にあります。神は「教会」を通して、神の栄光をあらわしたいと願っておられます(10節)。神に仕え、福音に仕え、教会に仕えることができるのは素晴らしいことです。これも神の恵みです。特権と言えます。なぜなら、神に協力して永遠の働きに参加していることになるからです。これほど名誉なことはありません。

私たちは悪魔に勝利します。なぜなら、主イエスがすでに悪魔に勝利されているからです。10節の「天にある支配と権威」とは、天使のことです。おそらく堕天使である悪霊どものことだと思います。イエスはペテロに約束されました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイの福音書 16:18)

教会は、主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画です。ユダヤ人が堕落し、神を裏切ってしまいましたが、これではまずい、代わりに教会を作ろうと神が慌てたわけではないということです。初めから、永遠の昔から、神は「教会」を想定していました。天地創造の前からです。教会を通して、福音が伝えられ、神の国が前進し、神の栄光が現わされていく、これは永遠の神のご計画です。私たちは神のご計画の中に入れられています。これは恵みです。神の恵みの賜物です。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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