羊飼いは当時のイスラエルでは日常生活で普通に見られるものでした。イエスの誕生をお祝いしたのは羊飼いたちでした。また旧約聖書においてもそうです。アブラハムの一族は羊飼いでしたし、モーセも荒野で40年間牧者でした。少年ダビデも羊飼いでした。更に言うなら、神ご自身が羊飼いでした。
旧約聖書では神はよく羊飼いにたとえられ、イスラエルの民は羊の群れとして描かれています。モーセによる出エジプトの記述が詩篇78:52に出てきます。しかし神は、ご自分の民を、羊の群れのように連れ出し、家畜の群れのように荒野の中を連れて行かれた。
そして新約聖書にも引き継がれています。イエスが羊飼いでした。私たち人間は羊です。マタイ9:36には イエスは、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。と書かれています。
人には誰でも羊飼い、導いてくれる人が必要です。問題は誰に導かれるかです。間違った悪い羊飼いに導かれるならば、間違ったところへ連れて行かれることになります。聖書には次のように書かれています。
1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」6 イエスはこのたとえを彼らにお話になったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼の言うことを聞かなかったのです。9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで狼は羊を奪い、また散らすのです。13 それは、彼が雇い人であっても、羊のことを心にかけていないからです。14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしは、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネの福音書10:1-18)
イエスは、ただの羊飼いではなく、「良い」羊飼いです。どのように「良いのか」という点を3つ見ていきたいと思います。
①私たちの名前を覚えていてくださって、私たちの名前を呼んでくださいます(3節)。
私たちが見るとどの羊も同じように見えるかもしれませんが、羊飼いが見るとどの羊か分かるようです。羊飼いは日本人にはあまり馴染みがないと思いますが、ニュージーランドでは車で走っていると、時々羊の群れに出くわしました。羊飼いが羊を導いていて、道路を横切るわけです。10分くらいでしょうか、彼らが渡り切るのを待ちました。
彼(イエス)は、自分の羊をその名で呼んで連れ出します(3節)。彼は、自分の羊をみな連れ出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、その声を知っているので、彼について行きます(4節)。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(5節)。
モートンという人がベツレヘム近郊で見た光景について書いています。「二人の羊飼いが、夜間その洞穴を羊の群れの待避所として使っていました。二人は自分の群れをどのようにしてえり分けることができたのでしょうか。一方の羊飼いが、自分の羊だけが知っている特別な呼び声を出すと、その群れ全部が彼の元に走り寄りました。羊たちはその声をよく知っていたからです。他の者の所には決して行きません。自分たちの羊飼いの呼び声をちゃんと聞き分けることができるのです。」
「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」/ ジャン=フランソワ・ミレー(フランス)/ 1860年
ここ(14、15節)で「知る」(ギノスケイン)とは、相互呼応的な深い関係を表す言葉で、外面的・形式的に知るということではなく、内面的・全人的に知ることで、全人格的な交わりを意味します。名を呼ぶとは、数字ではなく、個性と独自性を持った、ユニークな存在である一人を知り、呼びかけ、それに応答するという親密な関係性を示しています。
私たちは羊飼いであるイエスと交わりを持つことによって、御言葉と祈りを通してコミュニケーションを取ることによって、イエスの声を更に聞き分けることができるようになります。間違った声に気づけるようになります。世の終わりの時代、多くの惑わし、間違った悪いリーダーがいるので、洞察力が求められています。
②羊のためにいのちを捨てます(11節)。
パリサイ人たちは羊を食い荒らす盗人であり、偽りの牧者(羊飼い)でした。福音書を書いた使徒ヨハネは教会共同体の牧師や教師のことも念頭に置いていると思います。この当時、偽教師や惑わす者がたくさんいました。残念ながら現代も全く同じで、偽教師、惑わす牧師は、現実の教会にもネット上にもいます。彼らによって惑わされ騙された人々は間違った場所、領域に連れて行かれることになります。まさに強盗で、人々から人生を奪い取っていきます。
良い羊飼いは狼、悪魔、偽物の悪い指導者と戦います。ダビデも自分の羊を守るために戦いました。イエスは良い牧者(羊飼い)で、羊のために、すなわち私たちのためにいのちを捨てます(11,15節)。イエスが来られたのは、羊(私たち)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです(10節)。
イエスによって、私たちは救われます(9節)。牧草を見つけます(9節)。いのちを得て、いのちを豊かに持つことができます。救われ、霊的に成長することができます。羊が生きることができるように、牧草(日々の糧)も主は備えてくださいます。
③囲いの外にいる失われた羊をも導く(16節)
囲いの中にいるのはユダヤ人だけで、囲いの外にも羊がいました。それは異邦人のことです。ルカ15章に出てきますが、イエスはいなくなった1匹の羊を探すお方です。
ジョン・ウェスレーは「世界はわが教区」と言いました。現実的には多くの教団教派がありますが、私たちクリスチャンはイエスの声についていくならば、一つの群れとなることができます。使徒信条で告白している、イエス・キリストをかしらとする「聖なる公同の教会」です。目指すのは分裂ではなく、一致です。
良い羊飼いであるイエスは私たちに3つのものを与えてくださいます。①霊的な交わり。救い、成長、日々の糧。②いのち、いのちを捨てるほどの愛。③仲間、兄弟姉妹。
最後に詩篇23:1-6 を紹介します。
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
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