「神は愛である。私は倒れるまでこれを主張するつもりです。みなさん、神は愛です。」(賀川豊彦)
賀川豊彦(1888ー1960)は神戸に生まれ、5歳の時に両親と死別し、孤独な少年時代を過ごしました。青年時代にアメリカ人宣教師を通してキリスト教に触れ、16歳の時に洗礼を受けました。彼は「神よ。私をキリストのようにして下さい」と祈りました。そして21歳の時に、神戸の貧民窟に住み、キリスト教の伝道をはじめました。彼は人間として最低の生活をしたのです。
貧民街で伝道をはじめた最初の晩、伝染病の皮膚病をもった男の人が来て、彼の2畳の小屋に泊まらせて欲しいと頼まれました。これは賀川豊彦の信仰の試金石になりました。彼はこのような生活はつらいのでやめてしまおうとも考えましたが、決心してこの人を泊めました。それから乞食が来たので、彼はシャツをあげました。翌日、その男の人は戻って来て、今度は上着とズボンを持っていきました。賀川はボロボロの着物一枚になってしまったのです。貧民街の人たちは彼を笑いましたが、やがて尊敬するようになりました。彼は絶えず咳をしながらも「神は愛である」と説教をしました。彼はしばしば力尽きて倒れましたが、貧民街の荒くれ男が彼をやさしく抱えて、小屋に連れ帰ったのです(賀川豊彦の業績を記したシシル・ノースコット著「特筆すべき決断の時」を参考にしています)。
賀川豊彦自身の体験(前半生)が記されている1920年出版の「死線を越えて」は、大正期最大のベストセラーになりました(現在までの総発行部数は上中下の3巻全部を合わせて400万部に達していると推定されています)。1947年と1948年はノーベル文学賞の候補に選ばれました。
賀川豊彦{1888年(明治21年)- 1960年(昭和35年)}
今年は「死線を越えて」が出版されてからちょうど100年にあたります。賀川がスラム街に入って伝道したのは、日本資本主義の勃興期にあたり、労働者は劣悪な状況におかれ、貧富の差も激しく、弱者は追い込まれていました。そのような時に現れたのが、イエス・キリストの愛を伝えた賀川豊彦でした。彼は貧しい人々に希望を与えたのです。
現在も格差社会のひずみが出てきています。格差社会、劣悪な労働環境、貧しい労働者たちなどを描いた小林多喜二著「蟹工船」が出版されたのが1929年です。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的にも評価されました。この本の9年も前に「死線を越えて」が出版されていることには驚きです。
ウィキペディアによると、賀川豊彦は「貧民街の聖者」として日本よりも世界的に知名度が高く、戦前は現代の「三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称されていたとのことです。1955年と1959年にはノーベル平和賞候補にも推薦されていました。
彼の働きの動機はイエス・キリストの愛を実践することにありました。それはインド貧民街で神の愛を伝え続けたマザーテレサと同じです。賀川豊彦は書いています。「神は、最も貧しい人たちの間に住まわれる」と。
聖書は言います。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。(ヨハネの手紙第一 4章16節)
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