皮の衣

堕落前、女は「イシャ」(2:23)と呼ばれましたが、ここでアダムは妻にエバという名前を付けました。エバには「いのち」という意味があります。土のちりで造られたアダムは、その鼻にいのちの息を吹き込まれて「生きた者」となりましたが(2:7)、罪を犯して「死ぬ者」となってしまいました。だから、アダムはもう一度元のいのちを回復し生きた者となりたいと願い、妻にエバという名前を付けたのだと思います。聖書にはこのように記されています。

20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世記3章20,21節)

アダムは神によって語られた約束の言葉「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(3:15)を漠然としてではあったかもしれませんが信じました。それはまだエバが子供を生んでいないのに、エバに「いのち」という意味の名前を付けたことによって分かります。「女の子孫」による回復を求め、妻に「すべて生きているものの母」になってもらいたいという希望をもってエバと名前を付けたのでしょう。

神はアダムの信仰に答えて、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました(21節)。神は獣(おそらく羊ではないでしょうか)を殺し、その血を流して皮の衣を作り、彼らが自分たちで用意して身につけていたいちじくの葉(3:7)の代わりに、皮の衣を着せてくださったのです。人間が自分たちで作ったもの、すなわちいちじくの葉のような人間的な努力では、人は神の御前に立つことはできません。罪人は、自らが処罰されるか、それとも誰かが身代わりになって、その罪を処罰されなければなりません。神の命令を破ったアダムとエバは、「必ず死ななければならない者」となりました。そこで神は、アダムとエバの代わりに獣を殺して血を流し、その獣の皮で作った衣を二人に着せてくださったのです。皮の衣には動物の血がついていたことでしょう。「あなたは必ず死ぬ」と言われていたのに、死んだのは人ではなく動物でした。それが身代わりの死だったのです。

ここにイエスの十字架の奥義があります。それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(へブル人への手紙9章22節) バプテスマのヨハネはイエスを見てこのように言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネの福音書1章29節) イエスは神の小羊として十字架に架かり血を流し、私たちの罪の身代わりに死んでくださいました。これが福音(良き知らせ)です。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはありません。イエスは私たちの救いのために身代わりに十字架で血を流してくださったのです。それゆえ、私たちに死ではなく命が与えられています。

ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(ペテロの手紙第一 1章18,19節)

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示録7章9,10節)

イエスの十字架のひな型として、最初の犠牲の血が流されました。いちじくの葉ではなく、皮の衣が神ご自身によって用意されたのです。人間が自分で用意した衣服(思想、哲学、宗教など)では、神に受け入れられることはありません。神が用意されたものであることが非常に大切です。神が人類のために備えてくださったのが、罪のないイエス・キリストです。人がどんなに努力してもその行いは不完全であり、神に到達することはできません。ですから、神が完全な方イエス・キリストを人のために遣わしてくださったのです。このキリストを着る時(信じる時)に罪が赦され、神の御前に立つことができるようになります。

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。(ガラテヤ人への手紙3章26,27節)

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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