エデンの園からの追放

22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3章22~24節)

神は以前にも「われわれ」と複数形を用いられました。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1章26節) 神は唯一ですが、三位一体の神であることを示しています。すなわち、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神です。

神はアダムとエバをエデンの園から追放しました。それは神が禁じた善悪の知識の木から食べて罪人となった二人が、いのちの木からも食べて罪を持ったままで永遠に生きないように、という神からの愛と配慮のためでした(22節)。罪を持ったまま永遠に生きることは、希望がなく恐ろしいことです。その危険性を避けるために、神はアダムとエバをエデンの園から追放されました(23節)。

イギリス文学史上最高傑作の一つに数えられている『失楽園(Paradise Lost)』は、1667年にジョン・ミルトンがこのエデンの園でのサタンによる誘惑、人間の堕落、エデンの園からの追放をテーマにして書いた叙事詩です。最後の12巻では天使ミカエルがアダムに「楽園追放」を言い渡します。しかし、ミカエルはアダムに神からの慰めをも語ります。本来ならアダムやその子孫が受けるべき罰を、女のすえであるイエス・キリストが十字架で受けて死に、復活した後に昇天を成し、子孫が救われることを知り、希望を持って楽園を去るのです。ジョン・ミルトンは1671年には楽園でアダムが失ったものをキリストが回復するという叙事詩『復楽園(Paradise Regained)』を刊行しました。

1510年頃 「原罪と楽園追放」/ミケランジェロ作  所蔵:システィーナ礼拝堂(ローマ)

彼らがいのちの木に来ることができないように、エデンの園の東に、ケルビム(天使)と輪を描いて回る炎の剣(神の栄光)が置かれました(24節)。ヒゼキヤは主に祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。(イザヤ書37章15-16節)

天国にはエデンの園の回復した姿があります。御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊(イエス・キリスト)との御座から出て、都(天国)の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(黙示録22章1-5節)

罪を犯した後のアダムとエバは神の御顔を避けました。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した(創世記3章8節)。でも聖書の最後の書物である黙示録では、人々は神の御顔を仰ぎ見ています。何という違いでしょうか。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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