イエスは十字架で息を引き取る前に、「完了した」と言われました。旧約聖書のメシヤ預言を全て成就して、救いは成し遂げられたという勝利の叫びです。
28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。29 そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19:28-30)
宗教は「これをしなさい。あれをしなさい」と言います。しかし、福音(良き知らせ)は「すでになされた」と言います。宗教は下(地上、人間)から上(天、神)へ向かう努力です。しかし、福音は逆で、上から下。天から地上、神から人間へ向かいます。ですから、私たちがすることは、すでに成し遂げられ、完了したイエスの十字架のみわざを感謝して受け取るだけです。これは神からの一方的な恵みです。十字架を通して私たちは罪の赦し、永遠のいのち、救いを得ることができます。
十字架は勝利です。人には無様に見え、愚かに見え、敗北に見えます。しかし、これが神の知恵です。逆説的ですが、負けるが勝ち、弱い者が強い、これが福音です。人には愚かに見えるかもしれません。しかし、死がいのちをもたらします。
聖書は言います。21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリント1:21-25)
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:9,10)
「私が弱いときにこそ、私は強い」これはキリスト教の本質です。何よりイエス・キリストがそうでした。イエスは一番弱い時、十字架において、最大の勝利を得ました。
私たちも弱い時にこそ、神に出会うことができます。自分が強い時は、自分が順調な時は、神に頼らず、祈らなくなる傾向があると思います。そうすると、私たちは神のみわざを体験することが難しくなります。しかし、弱い時にこそ、逆境の時こそ、神に頼り、祈るようになり、その結果、神のみわざを体験することができるようになります。これが神の方法です。
医師の日野原先生が「失うことによって得る」ということを話されていたのを思い出します。日野原先生はクリスチャンですが、このように言っていました。「21歳の時、病気になって8か月寝たきりになったことが医者としての仕事をしていく上で貴重な体験になった。医者になる人は大きな病気になった方がいいと思いますよ。病人の気持ちがよく分かるから。」
まさに弱さが益になり、祝福になるということです。
38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。40 そこえ、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。(ヨハネの福音書19:38-42)
「十字架上のキリスト」 / ジョット・ディ・ボンドーネ ( 1267年 – 1337年 )
十字架は人々に大きな影響を与えました。3人見たいと思います。
①百人隊長
37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。(マルコの福音書15:37-39)
ローマの百人隊長はイエスの十字架をずっと近くで見ていました。イエスが「完了した」と言われ、幕が裂けるのを見た時、「この方はまことに神の子であった」と言いました。これは彼の信仰告白です。十字架を体験することを通して、彼はイエスを救い主と信じることができました。
②アリマタヤのヨセフ
アリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、恐れてそのことを隠していました。隠れクリスチャンであったヨセフは、十字架上のイエスを見て、心を大きく揺さぶられ、心が動かされました。これが十字架の死の影響力です。ヨセフは誰もあえてしようとしないことをしようと決心して行動に移しました。イエスのからだ(遺体)を十字架から取り降ろすこと、墓に葬ることです。これはとても勇気がいることで、よほどの覚悟がなければできないことでした。彼はサンヘドリンの議員(日本の国会議員みたいなものですが)でしたが、このことを通して自分の地位を失ってしまう可能性が大いにありました。自分を危険な立場に置くことになることは目に見えていました。しかし、彼は自分の信仰を行動に移したのです。彼は自分のために用意していた墓を、イエスのために差し出しました。自分の信仰を公にしました。以前は信仰を隠していましたが、十字架によって変えられ、今は信仰を表明しています。これが十字架の力です。
ヨセフは信仰のリバイバルが与えられました。信仰が復興し、燃やされたわけです。イエスの十字架が彼に衝撃と変革を与えました。彼は十字架によって変えられ、イエスのために立ち上がったのです。十字架に生きるようになりました。彼は勝利するクリスチャン生活を送るように変えられました。
私たちもヨセフのように十字架を通して変えられる者でありたいと思います。十字架を群衆のようにただ他人事として眺めているのではなく、リスクを冒して、自分たちの信仰をしっかりと表明していきたいと思います。
③ニコデモ
彼は没薬とアロエを混ぜ合わせたものを持って、やって来ました。埋葬の手伝いをしたのです。以前は隠れて、イエスの所に夜、来ました(ヨハネの福音書3:1-3)。しかし、今は昼、来ています。十字架によってニコデモも変えられました。十字架を通して、彼は新しく生まれる体験をしたのでしょう。もしくは、ヨセフのように信仰のリバイバルを経験したでしょう。ヨセフ同様、ニコデモも議員でしたが、リスクを冒して、昼来ました。
彼は以前、イエスからみことばを聞き、心に種が蒔かれていました。すぐには芽を出さなかったと思いますが、種(神の言葉)にはいのちと力があるので、彼の心の中で働き続け、ついには芽を出しました。彼はイエスが十字架に架けられると聞いて、カルバリーの丘に行ったことでしょう。そこで十字架にかけられているイエスを目撃したのではないでしょうか。イエスは十字架の上で、「彼らをお赦しください」と祈っておられました。呪いと憎しみではなく、愛と赦しの言葉を発せられていました。ニコデモは全てを理解できなかったと思いますが、イエスの十字架を見上げた時に、彼は救いを受け取ることができました。新しく生まれるという、以前は頭で分からなかったことが、聖霊のみわざを通して理解することができたのです。
すると、彼は埋葬のために用意していた没薬を持って現れました。彼は恐れて夜まで待つという方法もありましたが、それでは埋葬に間に合いませんでした。
律法にはこのように記されています。22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。(申命記21:22-23)
ユダヤでは日没の6時から一日が始まります。イエスは午後3時に息を引き取っているので、もうあまり時間がありませんでした。あと2,3時間のうちに十字架からイエスのからだを取り降ろし、墓に埋葬しなければならなかったのです。そのような中で、ニコデモは自分の信仰を行動で表し、アリマタヤのヨセフに協力しました。
十字架は人間の目には敗北に見えるかもしれません。しかし、神の目にはそうではありません。これは勝利です。私たちも敗北に見える事柄が十字架を通して勝利へと変えられていきます。
十字架を通して、ローマの百人隊長のように信仰告白(救い)に導かれます。また十字架を通して、ヨセフやニコデモのように信仰のリバイバルへと導かれます。十字架は彼らに新しい出発をもたらしました。私たちも十字架を見上げることを通して、勝利が与えられ、新しい出発をすることができます。
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