聖餐式にはどのような意味があるのか?

聖餐式が2000年間続いているのは本当に凄いと思います。聖書の教えを伝達するのにとても効果的な視覚教材と言えます。言葉がなくても全世界で通じるところが優れています。

キリスト教にはいくつかのサクラメント(秘跡、礼典、儀式)があります。アウグスティヌスによれば、サクラメントは、「見える言葉」です。説教が見えない言葉であるのに対して、儀式は見えるからそのように表現したのでしょう。カトリック教会にサクラメントが7つあるのに対して、プロテスタント教会は洗礼と聖餐の2つです。洗礼はキリスト教会への入会の要素があり、基本的には生涯で一回の儀式になるのに対して、聖餐は継続的に行う儀式と言えます。聖餐はイエスが十字架で裂かれた体と流された血を覚えて、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)に与かる礼典(儀式)です。

伝統的にプロテスタント教会は、礼拝において神の言葉(説教)を重んじます。一方カトリック教会は、ミサにおいて礼典(聖餐)を重んじる傾向にあります。「教会は何か」という問いに、宗教改革者のルターとカルヴァンは揃って言っています。「福音が正しく説教され、サクラメント(洗礼と聖餐)が神の言葉に従って執行される場所である」と。

1.聖餐式の由来は? 

古くは、旧約の過ぎ越しの祭りにあると言えます。昔、イスラエルの民はエジプトで奴隷になっていましたが、家の扉に羊の血を塗ることで裁きが過ぎ越されました。神が介入され、奇跡的にイスラエルはエジプトの圧政から解放され、脱出する時にパンを食べました。そのイスラエルに起こった歴史的な出来事を喜ぶのが過ぎ越しの祭りでした。

イエスはその過ぎ越しの祭りの日に、人間の罪を取り除く神の小羊として十字架に架かりました。旧約の過ぎ越しでは羊がほふられましたが、新約ではイエスが神の羊として(犠牲のいけにえとして)捧げられたのです。イエスを見たバプテスマのヨハネは言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネの福音書1章29節)

聖餐はイエスが十字架に架かる直前に最後の晩餐で制定されました。イエスは弟子たちと食事をしながらこのように言いました。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイの福音書26章26~28節)

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「最後の晩餐」が有名です。これは最初の聖餐式ともなりました。聖餐はキリスト教会がそれ以来2000年間守っているものです。神と人間との間にイエスの十字架によって新しい契約が結ばれました。

最後の晩餐 レオナルド・ダ・ヴィンチ 世界の名画

答え:イエスが弟子たちと食事をした「最後の晩餐」が、一番最初の聖餐式になりました。

2.聖餐式の意味と目的は?

聖餐の意味ですが、裂かれたパンは主イエスの砕かれた体を表し、杯に注がれたぶどう酒は主イエスが流された血を表しています。聖餐をする目的はいくつかあると思います。

贖罪的要素 イエスが十字架で裂かれた体と流された血を覚え、感謝を捧げるため。

教会的要素 教会内の人々が一つとなり、一致するため。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから(コリント人への手紙第一 10章17節)。

宣教的要素 イエスの死を告げ知らせるため。あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです(コリント人への手紙第一 11章26節)  

終末的要素 神の国が完成するのを希望を持って待ち望むため。イエスは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネの福音書6章54節)またイエスは最後の晩餐でこのように言われました。「今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(マタイの福音書26章29節)

答え:パンは主イエスの体を表し、ぶどう酒は主イエスが流された血を表しています。イエスの十字架によって罪が赦されていること&救われていることを覚え、感謝します(過去)。よみがえられたイエスと一つになり、また教会の兄弟姉妹と共に一つキリストのからだとされている奥義を受け取ります(現在)。イエスの再臨と死ぬことのない栄光のからだに変えられることを待ち望みます(未来)。

3.聖餐式について一つの解釈しかないの?

教派によって様々な解釈があります。聖餐に関して活発な議論がなされたのは宗教改革の時代です。今も議論はされていますが、その時代ほどではないでしょう。聖餐で用いられるパンとぶどう酒(ぶどうジュース)は、普通のパンとぶどう酒とどのように違うのでしょうか。あるいはまったく同じなのか。イエスがパンを持って、「これはわたしのからだです」(マタイ26:26)との言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。ここでは主要な解釈を見ていきます。

①カトリック教会の解釈   実体変化説(化体説)

儀式を執り行う司祭がパンとぶどう酒を聖別すると、実際にこのパンとぶどう酒がイエス・キリストのからだと血に変化するという解釈です。ですから実体変化説と呼ばれます。実際のパンとぶどう酒の形や味は変わりませんが、それらはイエスの体と血に変わっているので、聖餐に与かる人は自分の中にイエスの体と血を取り入れることができると信じます。杯は聖職者だけが受け、一般信徒は与かることができないようです。理由は、とても大事なキリストの血がこぼれる危険性ということです。確かに私がイタリアに行った時にミサへ参加しましたが、パンにしか与かることができませんでした。でもニュージーランドでミサに何度か参加した時には、なぜかパンとぶどう酒の両方に与かることができました。

②ルター派の解釈  共在説

ルターは、カトリック教会の化体説を否定しましたが、キリストのからだと血がパンとぶどう酒と「共に存在する」ことは肯定しました。「これはわたしのからだである」とイエスの言葉を字義通りに解釈して、パンの中にキリストの体が存在すると主張しました。ルターの聖書解釈のモットーは「字義通り」だったので、聖餐に関しても霊的な解釈をするのではなく、あくまでも字義通りの解釈にこだわりました。その結果、ルターの聖餐論はどちらかと言うと見えるものを重視していると言えるでしょう。聖餐論に関してはそれほどカトリック教会と変わらなかったというのが実情ではないでしょうか。

ただし、パンはパンのままであり、ぶどう酒はぶどう酒のままです。実体の変化はありません。パンとぶどう酒がイエスのからだと血に変わるのではなく、パンとイエスのからだが同時に存在し、ぶどう酒とイエスの血が同時に存在する。キリストの肉がパンの中に、パンと共に存在すると説明しています。カトリック教会が主張するように実体の変化はないが、パンと共にキリストの肉の実体があると解釈しました。パンもキリストも共に現れ、それぞれの実体が共に現臨する、すなわち、共存するということです。ですから、共在説と呼ばれます。パンとぶどう酒の中にキリストの体と血が実在する、真に現臨すると主張しました。そして、司祭や教職者、牧師の行為や力によってパンとぶどう酒が効力を発揮するのではなく、あくまでイエス・キリストの行為と力によって効力が発揮されると言っています。

③ツヴィングリ派の解釈  象徴説(実体不在説、想起説)

ルターが字義通りに解釈するのに対して、ツヴィングリは霊的に解釈するべきであると言いました。「これはわたしのからだである」というイエスの言葉は、文字通りパンがキリストの体であることを言っているのではなく、パンがキリストの体を意味すると考えたわけです。パンとぶどう酒は何も変化しないが、その意味が劇的に変化したのだと主張しました。

「化体説」も「共在説」もキリストの体と血が実際にパンとぶどう酒がある場所に存在すると解釈しました。カトリック教会とマルチン・ルターはリアリティ(実在性)に重きを置いている見解だと思います。それに対してツヴィングリは同じ宗教改革者でしたがルターとは違い、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血は実在しないと主張しました。パンとぶどう酒は物質であって、しるしに過ぎない。パンとぶどう酒に与かることは、キリストの十字架での死とその効力を思い起こし、覚え、記念するということであって、それ以上のものではないとし、聖餐の役割を強調しました。聖餐から実在性と神秘性を取り除きました。パンとぶどう酒はイエスのからだと血の象徴でシンボルに過ぎないということです。

大切なことはそのパンとぶどう酒がイエスのからだと血を表しているという事実であり、信仰をもって受け取ることが重要であると解釈しました。ツヴィングリは十字架を信じて罪が赦されることに重きを置いていますが、十字架につけられたキリストの肉体と流された血そのものをそれほど重要視していなかったのかもしれません。

彼は説教が言葉であるのに対して、パンとぶどう酒は見ることができ触ることができるので、視覚に訴える効果があると聖餐を評価しています。でもその評価の仕方は目に見えるリアリティーさよりも、精神を大事にしたと言えます。ですからどちらかと言うと過去に目が向きやすいと思います。あまり現在に目が向かないところに弱点があるのではないでしょうか。

現代の教会も場合によっては、聖餐式ごとにコリント人への手紙第一11章の「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい」(24節)と「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい」(25節)だけがいつも読まれ開かれていると、象徴説的な信仰に傾いていく可能性があるように感じます。聖餐式において様々な個所から読まれる方がバランスが取れて良いのかもしれません。ちなみに現代のカトリック教会ですが、実体変化説に変わりませんが、この象徴説から影響を受けているようです。

④カルヴァン派の解釈  霊的臨在説

ルターとツヴィングリは聖餐論で対立しましたが、カルヴァンはその中間を取ったと言えます。カルヴァンは「聖餐は信仰のみによってではなく、現実そのものにおいて、イエスの体と血にあずかるのだ」と言いました。現実とは何でしょうか。カルヴァンは「キリストの実体」であると言います。聖餐において与かるパンとぶどう酒が霊的キリストではなく、キリストのからだである、もっと言えば、実体としてのキリストの肉と血であると強調しています。

またこのように書いています。これはツヴィングリの象徴説を意識して書いていることは間違いありません。「聖餐においてキリストの霊のみにあずかると主張することは、キリストからその肉を取り去って、幽霊に変えてしまうことにほかならない」カルヴァンにとって聖餐においてあらわれるキリストは、あくまで肉と血との実体をそなえたキリストであり、それ以外のキリストではありませんでした。ですから、聖餐にあずかるということは、キリストの肉と血に実際的にあずかるということです。パンとぶどう酒が実際に変わることはありません。しかし、パンとぶどう酒の中にイエスの肉体が臨在するのではなく、イエスが霊的に臨在するとしてリアリティを保つようにしました。実在性と神秘性を残すようにしたのです。

キリストの肉と私たち自身が実体的に一つとなる。復活して昇天したイエス・キリスト、不死性を持つに至ったからだ、そのからだとどのように一つとなることができるのか。不可能ではないかと私たちは考えます。しかし、カルヴァンは、それは聖霊によって可能となると言いました。聖霊によってパンとぶどう酒がイエスの血と肉に変わるというよりも、聖霊によってイエスと一つになる。これが聖餐の奥義だと思います。

ちなみにそれ以降の歴史で重要な人物であるジョン・ウェスレーはパンとぶどう酒にそれほどとらわれなかったようです。「聖餐式が執り行われるその場所に、パンとぶどう酒も含めて、生けるキリストが臨在される」と言いました。

答え:ざっくりまとめるとこのようになると思います。

1.カトリック  パンとぶどう酒は、実際のキリストのからだと血である。

2.ルター派   パンとぶどう酒に、物理的なキリストのからだと血が含まれる。

3.ツヴィングリ派 パンとぶどう酒は、キリストのからだと血を象徴している。

4.カルヴァン派 パンとぶどう酒には、キリストのからだと血が霊的に含まれる。

4.聖餐は肉体に影響を及ぼすか? 癒しとの関係性はあるか?

聖餐は本来、心や記憶以上のもので、体で体感するものです。精神的なものであると同時に、身体的なものであると思います。イエスが受肉されたこと、肉体を持ってよみがえったこと、私たちも復活のからだが与えられることを考えると、実体というものは思っている以上に大事なのかもしれません。二元論的になりがちで、霊が強調されるようになると、体がどうしても疎かになってしまいます。過去に感謝することも大事ですが、死を打ち破ってよみがえられて今も生きておられるイエスを聖餐において体感できるならば幸いです。

そのうちの一つが癒しにもつながっていきます。霊的な救いが一番大切であると信じていますが、体の癒しも重要です。体の健康は聖餐と関係があると言えます。聖餐が正しく行われていなかったためにコリント教会には弱い者や病人が多くいました。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。(Ⅰコリント11章29,30節)。

アダムとエバがエデンの園で神から禁じられた実を食べたことによって、人類に罪と病気、死が入ってきました。しかし、イスラエルの民は、過ぎ越しにおいて種なしパン(パン種は罪を表しています)を食べました。そのことによって、体が強くなり、健康が与えられ、主の諸部族の中で、よろける者は一人もなかった(詩篇105:37)と記されています。旧約の過ぎ越しは影です。新約の最後の晩餐は実体です。イエスは罪のない、生けるいのちのパンです。イスラエルの民は羊の血によって救われ、パンを食べて癒しと健康が与えられました。であるなら、実体にはもっと力があるはずです。

イエスが十字架で流された血によって罪が赦されるのと同様に、イエスが十字架で裂かれた体によって、聖餐のパンを食べることによって、癒しと健康が体に与えられます。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(ペテロの手紙第一2章24節)と書かれています。聖餐がただ単に象徴や記念ではなく、イエスが現臨されるという実在性と聖霊によって奇跡が起こるという神秘性が聖餐式にあらわされていくことを願い、期待していきたいです。

答え:イエスが十字架で流された血によって罪が赦されるのと同様に、イエスが十字架で裂かれた体によって、聖餐のパンを食べることによって、癒しと健康が体に与えられることを期待できます。

聖餐においてもちろん自分自身を吟味し悔い改めることは大事です。しかしもっと大事なのは、罪深く足りない自分に目を留めることよりも、救いを完成し成し遂げて下さったイエスに目を留めることではないでしょうか。

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投稿者:canaan

埼玉県で10年間&北海道で10年間牧師の働きをしました。現在は神奈川県の教会で協力牧師をしています。私自身が様々なことば(特に聖書のことば)で力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in Saitama prefecture for 10 years and Hokkaido for 10 years. Now I am a cooperating pastor in Kanagawa prefecture. I myself have been empowered by various words(especially Bible ), so I would like to tell the hopeful words. 

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