「祈りの家」である教会 ヨハネの福音書2:12-25(聖書)

過ぎ越しの祭りは、イエスの時代から約1200年前(今から約3200年前)エジプトにおいて約450年間奴隷状態にされていたイスラエルの民が解放されたことを記念するための祭りでした。彼らは過ぎ越しの祭りを通して、神の偉大なみわざを思い出し、感謝したわけです。小羊の血を家の門に塗らなかったエジプトには神の裁きがくだり、小羊の血を家の門に塗ったイスラエルには神の裁きがくだらず、裁きは過ぎ越されました。この神のみわざによって、イスラエルはエジプトから脱出できたのです。これは個人的な救いであると同時に国家的な救いでもありました。

12 その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったのである。(ヨハネの福音書2:12-25)

過ぎ越しの祭りが近づき、イエスはエルサレムに行かれました(12節)。バプテスマのヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言いましたが、神の小羊であるイエス・キリストの血によって私たちが本来受けなければならなかった罪の罰が過ぎ越されたわけです。

多くの人々がイエス同様、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに来ていました。犠牲のいけにえを捧げるためでした。宮の中を見ると、牛や羊、鳩を売る者たちと両替人が商売をしていました(14節)。彼らはいけにえを捧げるためにエルサレムへ来ていた人たちに動物を売ろうとしていたわけです。イエスをその様子をご覧になって聖なる怒りを燃やされました。そして動物たちを宮から追い出し、両替人の金を散らし、台を倒して(15節)、言われました。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない」(16節)

「キリストの宮清め」/ アントニオ・ヴァッシラッキ/ 1592年/ 所蔵サン・ピエトロ教会 (イタリア)

現代的に言えば、聖書的に言えば、宮は教会であり、聖霊の宮である私たち自身であると言えます。イエスは私たちの中から良くないものを取り除きたい、追い出したいと願っておられます。神はまず私たちの中(内側)から良くないもの(古いもの)を取り除きます。その後で私たちの中に良いもの(新しいもの)を建て上げ、作り出します。

そのイエスの姿を見て、弟子たちは「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と聖書に書いてあるのを思い起こしました(17節)。これはダビデによる詩篇69:9からの引用です。神の前に正しく生きる努力が、この世界で常に正当な報いを受けることができるわけではないでしょう。しかし、私たちはイエスが、神が喜ばれないことを怒ったように、神が喜ばれないことに対して、聖なる怒りを燃やさなければなりません。

ダビデは神の家に住まうこと、すなわち神を賛美礼拝することを何よりも慕い求めた人物でした。そのようなダビデの真実な姿が皆から喜ばれたわけではありませんでした。ダビデが力強く踊って神を賛美しているのを見た妻のミカルは夫であるダビデを蔑みました。「王であるあなたが踊るなんてみっともない」と。

神の御前に喜ばれることが人々からも喜ばれるとは限りません。むしろ、特にこの日本では、人には喜ばれないことが多いのが現実ではないでしょうか。人々の考えや世の流れに迎合しないことは簡単なことではないと思います。しかし、私たちの基準はこの世にはありません。私たちの基準は神の言葉である聖書です。

福音書は4つありますが、イエスの宮聖めの出来事はすべての福音書に書かれています。

並行個所のマタイの福音書21:13  「『私の家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたは強盗の巣にしている」 イザヤ書56:7を引用しています。

マルコの福音書11:17 「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。

ルカの福音書19:46 「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。

『神殿から商人を追い払うキリスト』/ ヤーコブ・ヨルダーンス/ 1645-1650年/ ルーヴル美術館(パリ)

教会は「祈りの家」です。英語では、「House Of Prayer」です。現代の教会において「祈りの家」運動が世界規模でなされています。この働きは現代の聖霊運動と深く結びついています。この20年で「祈りの家」の働きは世界的なものになりました。1日24時間、365日ノンストップで祈りと賛美礼拝、霊的戦い、とりなしの祈りが捧げられています。この祈りの家の運動は世界にリバイバルをもたらしています。アメリカのカンザスシティー、エルサレム、インドネシア、台湾など。その主要な目的は、神の臨在を教会と地域にもたらすこと、教会のリバイバル、世界の福音化、イスラエルの平和などです。そして、霊的な雰囲気を変えることです

年間の日本人の救いは、約4千人と言われています。日本で暮らしている日本人が2千人、海外で暮らしている日本人が2千人です。住んでいる人口が全く違うのに、日本で暮らしている人と海外で暮らしている人が同数です。明らかに海外で暮らしている日本人の方が、日本で暮らしている日本人よりも救いに導かれる率が高いのが分かります。それは霊的な空気の違いです。

私がニュージーランドで学んでいる時に、夏季の実習訓練で2か月間私の奉仕教会がありました。そこの教会は300人ぐらいの教会でしたが、一つの働きとしてニュージーランドの人たちが日本人の学生たちをホームステイさせていました。そして日曜日に彼らがホームステイのファミリーと一緒に礼拝にくるわけです。大阪で宣教師として長年働いていたことのあるニュージーランドの方もいて、その方が英語で通訳するから、私が日本語でメッセージをするように主任牧師から依頼されました。場所はニュージーランドでしたが、私は日本語でメッセージをしました。それから日本人を預かっているホストファミリーから昼食に招待されて行きました。そこには何人かの20才前後の日本人の若者がいました。私はその時27才でしたが、ホストファミリーから英語があまり通じないから、伝道してくれませんかとお願いされたので、私は正直さすがに難しいんじゃないかと思ったのですが、今日のメッセージ分かりましたか、と言いながらシンプルに福音を語りました。すると、彼らの反応がよくて、すごい驚きました。彼らが日本で私の話を聞いても、こうはならなかっただろうな、と思いました。これは国全体の霊的な雰囲気の違いです。

祈る時、自分を起点にして、家族、教会、職場、友人と広げていったらよいと思います。地理的にも自分の住んでいる地域から始めて、学校や仕事の場所、都道府県、日本、世界へと。イエスはすべての民のために祈るようにと願っておられます。特に私たちと関わりがある国のために祈ります。またニュースを見て、心動かされたらその国のために祈ると良いと思います。

ユダヤ人たちは言います。「しるしを見せてください」(18節)イエスは答えます。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(19節)ユダヤ人たちはイエスの答えを字義通りに受け取り、エルサレム神殿のことを言っているのだと理解しました。この神殿は、ヘロデ王の時代、すなわち紀元前(BC)19年頃に建て始められました。この時点で建設に46年かかったとあるので、イエスとユダヤ人とのこの会話は紀元(AD)27年頃であったと推測されます。この段階では神殿はまだ建設途中で、紀元64年に完成しました。

しかし、イエスはご自分のからだのことを言われていたので(21節)、これはご自身の復活の預言でした。「私の体を殺してみなさい。三日後に建て直してみせます。死からよみがえってみせます」と仰ったわけです。ヨハネを含め弟子たちは、イエスが復活した時に、この預言の言葉を思い起こし、聖書とイエスが言われたことばとを信じました(22節)。

イエス・キリストを通して、神殿祭儀は廃棄されました。旧約時代は神殿でしか神に近づくことができませんでしたが、新約時代はイエスの復活によって主はどこにでもおられるので、私たちはどこにいても主を礼拝することができます。

教会は祈りの家です。私たちは聖霊の宮です。主イエスは私たちに祈って欲しいと願っておられます。イエスは十字架にかかる時、ゲッセマネで弟子たちに一緒に目をさまして祈ってもらうことを願っていましたが、弟子たちは眠ってしまいました。私たちは霊的な目を覚ましている必要があります。祈りは神の奇跡を引き起こします。あきらめないで、祈り続けていきましょう。祈りを通して世界を祝福していきましょう。

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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