ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(新改訳聖書 マタイの福音書13章23節)
心の姿勢は非常に大切です。人生は心の持ち方で決まると言っても過言ではないでしょう。
アフリカに靴を売りに行ったアメリカ人の営業マンの話があります。ライバル同士の靴のメーカーにAさんとBさんという2人の営業マンがいました。2人がいるメーカーはアフリカに靴を売りに行く計画を立てました。
ところが2人にとって予想外の状況が待ち受けていたのです。何とアフリカの人たちは皆靴を履いていなかったのです。それを見てAさんは急いで本社に報告しました。「ここでは靴は売れません。だってみんな裸足なんですから。アフリカへの進出は無理です。可能性は全くありませんから絶対にやめた方がよいです」と。
一方のBさんも現地の人たちを見て急いで本社に連絡しました。「至急ありったけの靴を送ってください。ここでは誰も靴を履いていません。この人たち全員が靴を買ってくれたら、すごいことになります。アフリカには無限の可能性があります。ぜひアフリカへ進出しましょう。絶対に成功すると思います」と。
この2人は同じ光景を見ましたが、2人の反応は全く異なりました。心の持ち方が違ったのです。同じ状況でもポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかによって全く違う判断になります。
上記は有名なイエスのたとえ話の結論で語られた言葉です。たとえ話とは、道徳的・霊的真理を日常の事柄によって説明する比喩的表現です。この例え話(マタイの福音書13章1~9節、18~23節)には4種類の土地が出てきますが、土地は人が持っている心の態度を表しています。それぞれの土地に同じ種が蒔かれましたが、結果は全く違うものになりました。同様に、人が素晴らしい言葉を読んだり聞いたとしても、その人の心の持ち方によって全く違った結果を人生にもたらします。
種を蒔く人は農民です。農民が種を蒔きました。この当時のイスラエルでは雑な種蒔きがされていたようです(今は最先端の農業ですが)。畑を歩きながら手で袋から種をいくつかつかみ取って、バッと種を投げるわけです。それから鍬を入れて土をかぶせました。種はどこに落ちたでしょうか。イエスは4種類を挙げています。
1.「道ばた」に落ちた種(4節)
2.「土の薄い岩地」に落ちた種(5節)
3.「いばらの中」に落ちた種(7節)
4.「良い地」に落ちた種(8節)
ここまではたとえ話です。18~23節がたとえの解説です。
「道ばた」に蒔かれた種は、鳥に食べられてしまいます。道ばたとは踏み固められてしまった、頑なな心のことです。ガチガチなわけです。そのような心の状態では、せっかく種が蒔かれても、なにものかに奪われてしまいます(19節)。
道ばたに蒔かれた種は、先入観や偏見にとらわれてしまっていたり、常識という枠に縛られて、新しい考え方や新しい発見ができなくなってしまっている人の心の状態です。伝統や因習、自分の価値観でしか物事を捉えることができないような心からは、新しい良いものは何一つ生まれてこないでしょう。衰退あるのみです。柔軟性が求められています。
コロンブスは「水平線の向こうは滝のようになっているので、遠くへ行くのは非常に危ないから行ってはならない」という当時の常識を無視して、航海に乗り出し、アメリカ大陸を発見しました。私たちの心は新しい良いものに対して常に開かれているでしょうか。
2番目は「岩地」に蒔かれた種です。土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまいました(20、21節)。
これは良い言葉や新しいことに心は開かれているのですが、あきらめの早い人で、すぐに物事を投げ出してしまう人の心の状態です。熱くて燃えるのも早いけど、冷めるのも早い人です。新しいものにすぐに飛びつくのは良いのですが、忍耐力がないので長続きしません。困難や試練に弱く、すぐにつまずいてしまいます。その結果、何も得ることができません。
成功哲学で有名なナポレオン・ヒルがこのような話を紹介しています。アメリカのゴールドラッシュの時代ですが、ダービーという人が、コロラド州に金脈を持っていました。金脈からは金がたくさん出ましたが、それもしばらくのことで、やがてさっぱり出なくなったように思われました。
ダービーはもう少し奥まで、またもう少し深くまで掘ってみました。しかし金は少しもとれませんでした。そのため、掘るのをやめ、採掘の道具と金鉱を数百ドルである探鉱者に売りました。ところが、この探鉱者は、ダービーが掘るのをやめた場所から三フィート(約九〇センチ)と離れていないところで、数百万ドルの価値ある金脈を掘り当てたのです。
ダービーの問題は、あきらめるのが早すぎたということです。もう少しあきらめないで頑張り続けることができれば、結果は違ったものになっていたのです。
3番目の「いばらの中」に蒔かれた種は、根はあるけどいばらが伸びてふさがれてしまって、実を結ぶに至りませんでした(22節)。良い言葉や新しいことに対しては心が開かれているのですが、様々な欲望や富の惑わしにふさがれてしまって、実を結ぶことができません。これは二心で優先順位が確立されていない人の心の状態です。
最後は「良い地」に蒔かれた種で、順調に生育し、豊かな実を結びます(23節)。良い地とは、種が芽を出してよく育つよう十分に耕され、肥料も豊かに施された土壌のことを言います。これは、イエスの言葉や人のアドバイス、新しい情報や知識を素直な心で受け入れ、賢く適応している人の心の状態です。
私たちの心の状態がどのようであるかが問われています。私たちは自分の心をよく耕し、良い地の状態にしておく必要があります。コロナウィルスの猛威など人生において様々な予期しない出来事が起こりますが、それを変えることはできませんし、コントロールすることもできません。しかし、唯一自分でコントロールできるのは、自分自身の心です。心の持ち方を変えれば、人生で豊かな実を結ぶことができるはずです。
聖書の箴言4章23節にこのような言葉があります。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
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