天から下って来たいのちのパン 

5000人の給食(ヨハネの福音書6章1-15節)では「見えるパン」がテーマでしたが(参考 https://canaan.blog/the-feeding-of-the-5000)、ヨハネ6章16節以降は「見えないパン」がテーマになっています(参考https://canaan.blog/the-bread-of-life/)。

イエスは言われました。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネの福音書6章51節)イエスは自分のことを「わたしは天から下って来たパンである」(ヨハネ6:41)と宣言されたのです。自分がどこから来たのかと問われれば、イエスの答えは「天からです」というものでした。

それを聞いていた人々は違和感を覚えました。なぜなら、彼らはイエスのことを知っていたからです。幼い時のことを知っていた人もいたのでしょう。「彼のお父さんはヨセフで、お母さんはマリヤなのに、なぜ彼は天から下って来たなどと言うのだろうか。彼は天に属する者ではなく、確かにこの地上に属する者である。頭がおかしくなってしまったのか」と彼らは思いました。

それに対してイエスは「互いにつぶやくのはやめなさい」、「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)「あなたがたの父祖たちは荒野でマナ(パン)を食べたが、死にました」(ヨハネ6:49)。「しかし、私は違います。私は、天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(50,51節)と言われました。

イエスはいのちのパンです。信じる者に永遠のいのちが与えられます。この地上のパンは長持ちしません。いずれ腐ってしまいます。この地上のパンを食べると私たちの身体は元気になりますが、でもまたしばらくするとお腹がすいてしまいます。食べ続ければずっと生きることができるかというと、そうではなく死に負けてしまいます。しかし、天から下って来たパンがあります。天から下って来られたお方がいらっしゃいます。誰でもそのパンを食べるなら永遠に生きることができます。このパンはイエス・キリストご自身を指しています。

イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイの福音書4章4節)

食べ物は食べないと味が分かりません。私は直売で自分たちや他の農家さんが生産した野菜や果物を運びますが、自分が食べたことのあるものは説明しやすいですが、食べたことのないものは頭では分かっていても、ネットで調べて説明文を読んでいても、農家さんから味の説明を聞いていても、やはり実際に食べていないものを他の人に説明するのに難しさを覚えます。いのちのパンであるイエスも同じようなところがあると思います。食べないと味が分からない。信じないとイエスの素晴らしさが実感できないという領域があるのではないでしょうか。

もちろん頭で理解することは大事です。直売所の横にパン屋さんがあります。私はパンが好きなので、週に一回買っていました。パン屋には様々なパンがあり、説明や紹介文が書かれてあります。それは参考になります。でも結局のところ、買って食べないと分からないと言えます。ある時、ちくわ明太子パンが目に入り、たまには普段あまり食べない変わったものにも挑戦しようと思って買いましたが、とても美味しかったです。いのちのパンであるイエスを思い切って食べる、思い切って信じるなら、その美味しさに驚くと思います。私たちは更にイエスを味わっていきましょう。いのちのパンであるイエス。超お勧めのパンです。

初代教会の時代、クリスチャンたちは人の肉を食べ、人の血を飲んでいる野蛮な者たちだと誤解されて軽蔑され、批判されていました。しかし、それは勘違いで彼らが実際にしていたのは聖餐式でした。

何でもそうですが、私たちは内側に取り入れない限り、それはいつまでも外面的であり、外側にいることになります。例えば演劇でシェークスピアを読む。役者であれば台本を読む。彼らは内側に取り込もうとします。自分の血と肉となるまで読むと言いますが、机や本棚に置いたままでは、またたった一回読んだぐらいでは内側に入ってこないわけです。本棚から取り出して何回も繰り返し読んで朗読したり、その情景を思い浮かべて黙想してみるなどして、次第に自分のものとなっていくでしょう。みことばもそうです。私たちが更に神の言葉である聖書の素晴らしさといのちを体験するためには自分の内側に取り込むことが大切です。

イエスご自身に対してもそうです。聖書の中に登場する過去の人物で留まっているならば、それは外面的です。しかし、イエスが私たちの心の内側に入って来られるなら、いのち、喜び、躍動感といったものが内側に取り込まれます。今も生きておられるイエスが自分の心と生活の一部になります。イエスの血を飲み、イエスの体を食べるとはそういうことだと思います。

乳飲み子の飲む乳は、お母さんの肉と血が原料です。胎児もそうでしょう。母親から栄養を吸収して大きくなります。枝もそうです。木から肉と血、すなわち、流れてくる栄養を受け取って実を結ぶようになります。

私たちが日々食べる物が、私たちにとっての栄養となり、私たちを養います。私たちの体にとって血となり肉となります。私たちがイエスの血と肉(イエスご自身)を食べるなら、内側にお招きするならば、また霊の糧である聖書の言葉を食するなら、内側に取り込むならば、次第にそれが私たちの肉となり血となっていきます。それはいのちのパンなので、私たちにいのちをもたらします。そのいのちは死に打ち勝ついのちです。

弟子たちのうちでもつぶやく者たちが出ました(ヨハネ6:60)。イエスの元を離れていく者たちがいました(ヨハネ6:66)。彼らの先祖たちも同じようなつぶやきをモーセに対して、神に対してしたのです。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)と。昔、イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態からせっかく救い出されたにも関わらず、荒野で神が備えてくださったマナ(パン)に飽き「エジプトに帰りたい、肉を食べたい」とつぶやき文句を言いました。これは現代も同じです。つまずく理由は様々でしょうが、実に多くの人々がイエスから離れていきます。

私たちにもつまずく可能性はあります。それぞれ理由は違うと思いますが、危険性は常にあるわけです。「なぜ、私にこのようなことが起こるのか。なぜ私の祈りが聞かれないのか」など。弟子たちの中からでさえ離れていく人が出てくる中で、イエスは側近の12弟子に聞きます。「このことであなたがたはつまずくのか」(ヨハネ6:61) あなたがたも彼ら同様つまずいてしまうのか、と問われました。この問いは私たちにも向けられています。今は激動の時代です。これから先私たちの周りで、私たちの社会で何が起こるか分かりません。

イエスに対する反応はいつの時代も大きく分けて3種類あります。①イエスから離れていく人。多くの弟子たちがそうでした。一度イエスについていき共に歩んでいたのに途中で離れてしまう人々です。②イエスを裏切り、悪魔についていく人。12弟子に選ばれるという驚くべき特権が与えられていたのに、ユダは悪魔に魂を売り、イエスを裏切りました(ヨハネ6:71)。イエスに用いられていたにも関わらず、晩年悪魔に惑わされる人たちです。③イエスに従い続ける人。失敗もたくさんしますが、でもその度に悔い改め、イエスに従い続ける人たちです。ペテロがそうでした。彼は言いました。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:68)ペテロのようでありたいです。

イエスは天から下って来た「いのちのパン」です。この地上のパンでは満たせない心の領域をイエスは満たして下さいます。そればかりか死に打ち勝つ永遠のいのちを私たちに与えて下さるのです。

スポンサーリンク



投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA