四方八方塞がりの時、どうしたら良いでしょうか?前にも進めず、後ろにも戻れないような感じがして、失望し、絶望する時が人生にはあるものです。そのような時は、上を向いてみましょう。永遠のベストセラーである聖書、人々に希望を与え続けている聖書はこのように言っています。
1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。4 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。(コロサイ人への手紙 3:1-4)
コロサイ教会において、異端の教えがはびこり、人々は不自由になっていました。これをしなさい、あれをしなさい、と。福音はそうではありません。イエス・キリストの福音は私たちを自由にします。これもいい、あれも大丈夫。もちろん何をしてもよいということではありませんが、しかし、真理であられる主イエスを通して、私たちは本物の自由を手にすることができます。何からの自由でしょうか?罪と罪責感、失敗した後悔から自由にされ、死と死の恐れから自由にされ、そして悪魔の支配から自由にされます。悪魔は忙しく働いています。異端の教え、またこの地上のヒューマニズム(人間中心主義)は、私たちを不自由にしようとしています。
現代、悪魔はどのように働いているでしょうか?彼ら(悪魔と悪霊)には大きく2つの方法がある、と思います(2節)。まず悪魔は私たちの思いを地上のもの、物質、目に見えるもの、お金、欲望に働きかけてきます。そして、天のもの、霊的な事柄、目に見えない世界、神から目をそらせようとしています。これが足りない、あれも足りないと。多くの広告を通して、日々私たちの視覚に訴えかけてきます。また、倫理と道徳、宗教で満足させようとしてきます。良い行いを含みます。それは一見、賢いもののように見えますが、それでは救いと自由を得ることができません(2;23)。
マルチン・ルター(1483-1546年)
宗教改革者マルチン・ルターが強調しましたが、私たちは良い行いをするから救われるのではありません。神の一方的な恵みによって、ただ信仰によって救われます。地上における努力が私たちに自由と救いを与えるわけではありません。そうではなく、上を、天を見上げることによって、神からの救いと自由を得ることができます。
悪魔が人を惑わす2つ目は、人々を偽りの霊的なもの、偽物の神々へと導こうとします。人が物質的なものに限界を感じ、お金を稼ぐだけの人生に疲れ、この地上のものから天に目を向けるのは良いことです。しかし、ここでも悪魔が巧妙に働いてきます。人が霊的なものを求め始めると、悪魔は偽物、偽りのものを提供しようとします。それが異端の教えであり、間違ったスピリチュアルなものです。使徒ヨハネは書いています。愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです(Ⅰヨハネ 4:1)。
この世の中には、霊的なもので、悪霊から来ているものがたくさんあります。それらは結局のところ、人を自由にするのではなく、不自由にします。占い、風水、占星術など。そしてキリスト教の異端にも気を付ける必要があります。それらはコロサイ教会を惑わしていたものであり、現代においても形を変えて同じようなものが現れています。
執筆中のパウロ
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい(1節)。このことを一番象徴的に表しているのが、洗礼式です。洗礼式で、私たちは水の中に沈められ、起き上がりました。水に沈められるとは、それは自分に死に、罪に死に、古い自分に死んだということです。ある意味でお葬式です。イエス・キリストと共に自分が死んだのです。そして、次に起き上がります。新しい命に生きる、イエス・キリストと共に復活したわけです。
そうであるなら、上にあるものを求めなさい(1節)、天にあるものを思いなさい(2節)、と聖書は私たちに語っています。この地上のものに心を奪われるのではなく、一時的なものに執着するのではなく、神を求め、神の国と神の義を第一に求めていく(マタイの福音書 6:33)。これがキリスト者の生き方です。神は私たちにそのことを望んでいます。
人生とは、結局のところ、生きることと死ぬことだと思います。生まれてから生きます。生きるうちに死が近づいてきます。そして、いつか死にます。これが全ての人の人生であり、人生の結末です。
ではクリスチャンの人生とは何でしょうか? 死んで生きるということです。生きて死ぬのではなく、死んで生きる。順序が逆になります。それを鮮やかに示してくれているのが、洗礼式です。洗礼は、私たちの信仰の中心である、イエス・キリストの十字架と復活をよく表しています(ローマ人への手紙 6:8,11)。
ローマ人への手紙6:3-5にこのように書かれています。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私は10歳の時に、死の恐れがありましたが、教会の子供集会で、福音のメッセージを聞いて、イエス・キリストを信じました。イエス・キリストがよみがえりであり、いのちであること、主イエスは死よりも力があり、死を打ち滅ぼすことができ、イエスを信じる者は死んでも生きることができることを知り、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、イエス様を心にお迎えしました。その時に死の恐れから自由になりました。そして高校1年生になったばかりのイースター(復活祭)に洗礼を受けました。本当に感動し、喜びで満たされ、「よし、これからは上にあるものを求めて生きよう」と思いました。しかし、弱いもので、残念ながら、高校生活はこの地上のものを求めて生活してしまいました、、
でも大事なことは、確かに洗礼は人生で一回のものですが、十字架と復活に生きるのは、毎日のことであると覚えることです。聖霊によって歩むときに、私たちは上に天に目を向けることができます。聖書を読むとき、祈るときに、私たちは神にフォーカス(焦点)を当てることができます。礼拝を捧げることもそうです。私たちは日常生活において、いろいろなことが起こり、天のこと、神のことを忘れ、地上のものに目が向きやすくなります。もちろん、地上のこと、仕事のこと、家のことをすることは良いことであり、大事なことです。しかし、私たちは国籍が天にあることを覚えていなければなりません。そうでなければ、的を外した人生になってしまうでしょう。
その時に大事になってくるのが、永遠の視点、神の視点、神の国の視点を持つということ、です。この地上の人生は過ぎ去っていきます。一時的です。人生100年時代と言われますが、長いようで短いです。永遠と比較するなら一瞬です。イエスは、「天に宝を蓄えなさい」とおっしゃいました(マタイの福音書6:19-21)。これは神が私たちに対して、「あなたは人生で何を最優先にしますか」という問いかけです。宝を地上に蓄えるのか、それとも天に蓄えるのか。
もう一つ大事なのは、人の評価ではなく、神の評価を気にすることです。使徒パウロが晩年に書いたのが、Ⅱテモテ4:6-8です。6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
いつの日かイエス・キリストが再臨されます。その主の現れを慕い、待ち望んでいる者たちに、義の冠が用意されています。天で表彰式があるということです。地上のものを追い求めて生きていくなら、天に宝を積むことはできません。しかし、上にあるもの、天にあるもの、神の国を追い求めていくなら、天に宝を積むことになります。
最後にどのような時に思いを天に向けたら良いのかを3つ記します。
①まず早朝です。起きたらすぐ、もしくはその日の生活を始める前、仕事の前です。朝、思いを天に向けないなら、一日地上のものを思って生活するようになってしまうでしょう。一日は朝で決まるといっても過言ではありません。テレビを見る前に、新聞を読む前に、ネットを見る前に、朝、聖書の言葉を開き、人の言葉ではなく、天からの神の言葉に耳を傾けていく。また祈りを通して、思いを天に向けるなら、一日を主と共に過ごすことができます。
洗礼式
②お風呂に入るときをお勧めします。なぜなら、お風呂には水があるからです。水があるので、自分の洗礼式を思い出すことができ、洗礼をイメージできます。自分はキリストと共に死んだ者であり、キリストと共によみがえり、新しい歩み、上にあるもの(神の国)を求め、天にあるもの(神)を思いながら生活していくことを改めて確認することができるのではないでしょうか。
③大変な状況になった時、試練の時です。エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、エジプトを脱出したとき、前は海、後ろはエジプトの軍隊が迫ってきていて、絶体絶命のピンチに陥りました。しかし、モーセは天を見上げました。すると神が介入され、海に道を設けてくださり、イスラエルの民は無事に安全に海を渡ることができたのです。水の中を通って、エジプトとパロ王の支配から脱出しました。これは水のバプテスマ、洗礼の型です。
Ⅰコリント10章1,2節にこのように書かれています。1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、 私たちも霊的な出エジプトをすることができました。エジプトの支配、すなわち罪の支配から脱出できたのです。パロ王の支配、すなわち悪魔の支配から解放され、自由にされました。
彼らは四方八方がふさがれているように感じました。どこに逃げ場があるのだろうか、と。モーセは天を見上げました。神に助けを求めました。すると、神が介入され、道がない所に道を作ってくださったのです。私たちもそうです。大変な時にこそ、試練の時こそ、上を見上げましょう。たとえ、四方八方がふさがれているように感じても、上は(天は)空いています。天にあるもの、すなわち、神に目を向けましょう。そうすれば、神が祈りに応え、介入し、解決を与えてくださいます。
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