驚くべき神の愛 ヨハネの福音書3:13-21(聖書)    

13 「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3:13-15)

モーセの時代に死に瀕していた人々が青銅の蛇を仰いで死なずに生きることができたように、今の時代、イエス・キリストを仰ぐ人たちは救われることができます。イエスは青銅の蛇のように上げられました(14節)。すなわち、十字架にかけられたのです。

十字架を見る時に、私たちは神の小羊を見ます。世の罪を取り除く救い主です。しかし、十字架を違う方から見るなら、私たちの敵である蛇の形、悪魔の形、罪人の形が見えます。イエスは蛇となって、罪人となって、私たちの心から蛇の毒、罪の毒を取り除いてくださいました。

イスラエルの人々は蛇を仰ぐことによって、蛇の毒が完全に取り除かれ、命が与えられました。同じように、十字架につけられたイエス・キリストを見上げ、仰ぐならば、私たちの心から罪の毒が取り除かれます。これが福音です。良き知らせです。この福音によって私たちは新しく生まれ変わったのです。イエス・キリストを信じる者は、永遠の命を持つことができます(15節)。

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。20 悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。21 しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネの福音書3:16-21)

16節に父なる神の愛を見ることができます。神は私たち一人一人を愛してくださいました。ひとり子イエスをお与えになったほどにです。イエスをこの地上にお遣わしになったのは、父なる神です。人間を罪から、滅びから、闇から、悪魔の手から救い出すためです。

「アメイジング・グレイス」という有名な讃美歌があります。日本語に訳すと「驚くべき恵み」です。アメイジング・グレイスは讃美歌の中で最も有名な曲と言っても過言ではないでしょう。この曲の作詞は18世紀イギリスでジョン・ニュートン牧師によって書かれました。

一番を訳すとこうなります。

何という驚くべき恵み! 私のような惨めな者が救われるとは!

私はかつて失われていたが、今は見出されている。かつては盲目であったが、今は見える。

ジョン・ニュートンは自分の人生になされた驚くべき神の恵みに感動して、感謝しつつこの讃美歌を書きました。Grace(恵み)とは、本来祝福を受けるに値しない者に注がれる神の愛のことです。

ジョンニュートン(John Newton、1725年 – 1807年)は、イギリスの海軍兵士から奴隷商人を経て牧師となった人物。賛美歌「アメイジング・グレイス」の作詞者。 

彼の人生に逆転が起こりました。以前は黒人の奴隷貿易に関わり、黒人をひどく扱っていましたが、転機が訪れました。彼の乗っていた船が嵐に遭い、船体は損傷し、破損した船体の部分から海水が流れ込み、ついには転覆しそうな危機に陥ったのです。いのちさえ危うくなりました。彼は人生で初めて神に真剣に祈りました。絶望的な状況が長い時間続きましたが、彼の祈りは答えられ、強風が次第に弱まり、浸水もおさまっていったのです。沈没の危機から救われました。後に良心の呵責を覚えて、黒人の奴隷貿易から身を引きます。そして自分を救い出してくださった神に仕えるために牧師になりました。

彼の体験がアメイジング・グレイスの歌詞にあらわれています。「自分のような黒人を酷く扱っていた者が救われた。かつては神の前に失われていたのに、今は神に見い出された。かつては何も見えていなかった、神を知らなかった。でも今は見える、神を知っている。」ジョン・ニュートンに神の驚くべき恵みのわざが起こりましたが、神の驚くべき恵みと愛が私たちにも注がれていることを覚え、感謝を捧げましょう。

ヨハネの福音書3:16は聖書全部をまとめたような一節であると言われます。聖書のメッセージがギュッと凝縮されているわけです。20世紀の大伝道者ビリー・グラハム先生は、集会の前にこの一節を使っていつもマイクテストをしていたと聞いたことがあります。そのことによって、集会に参加できない音響や照明などの人々にも福音を伝えるためです。何と素晴らしい心がけではないでしょうか。

ビリーグラハム(英語: Billy Graham、1918年11月7日 – 2018年2月21日)

父なる神の愛に注目したいと思います。この神の愛には、神の犠牲が伴っていることを覚える必要があります。父なる神は、親として、父として、自分の子供を失うということを体験されたのです。これはどれほど苦しいことでしょうか。

海に泳ぎに行ったら、二人の子供が溺れていたとします。一人は自分が知らない子供、もう一人は自分の子供。皆さんだったら、どちらを助けますか。間違いなく自分の子供を助けると思います。

さて、父なる神はどうされたのでしょうか。二人の人が死に瀕しています。一人は私たち、もう一人はイエス・キリスト。どちらを助けたでしょうか。イエスは十字架で叫ばれました。「どうして私をお見捨てになったのですか」  (マタイ27:46)そうです、父なる神は御子イエスを助けないで、私たちを助けてくださったのです。イエスを助けてしまったら、私たちの罪は赦されることはなく、いのちを得ることもありませんでした。神の国を見ること、天国に入ることもできません。私たちが助かり、罪の罰を受けなくてよいように、永遠のいのちを得ることができるように、イエスを助けなかったのです。これは苦悩以外の何物でもありません。ある人は発狂するほど神は苦しまれたのではないかと言いました。

光であるイエスは、私たちの心を照らし、明らかにされます。その時に、私たちは決断を迫られます。光の元へ行くか、闇に留まるか(19-21節)。神は私たちを闇では光の方へと、死ではなくいのちの方へと、招いておられます。応答して光の方、いのちの方へと行きましょう。

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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