今年は3月2日から受難節が始まっています。今年のイースター(復活祭)は4/17です。その時まで、イエスの受難(苦しみ、十字架)を覚えて、悔い改めの心を持って過ごす時期になります。今日はイエスが十字架へ向かわれる直前の「ゲツセマネの園」での祈りを見ていきます。
36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(マタイの福音書 26:36-46)
イエスは十字架を前に恐れていました。当然です。イエスはゲツセマネの園へ祈るために、心を備えるために来ました。イエスを裏切るユダを除く11弟子に言われました。「座っていなさい」(36節)それから3人だけ(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)を連れて、更に奥へ行きました(37節)。この三人はイエスの栄光を変貌の山で見た三人でした。彼らは、目の前で、イエスの姿が変わり、顔が輝き、衣が光にように白くなるという光景を目撃しました。イエスの栄光と苦しみを近くで見る特権にあずかった3人でした。
イエスは弟子たちに言います。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」(38節) 人間イエスは十字架を前にして苦悩されました。悲しみもだえました。私たちの人生にも試練がやってきます。その時に信仰が試されます。
イエスはせめてこの3人だけには、自分の気持ちを理解してもらいたかった、重荷を一緒に担ってもらいたかった、心を一つにして欲しかったと思います。それでお願いしたわけです。「わたしといっしょに目をさまして、祈っていてください」と。その前には、ペテロはご一緒に死ぬ覚悟ができていますと言ってますし、ヨハネとヤコブも杯を飲みます、苦しみを共にしますと言っているわけです。この3人の意気込みを考えると彼らは目を覚まして祈っていることができるはずでした。
今、イエスはどこで何をされているのでしょうか。今、イエスは、天で、大祭司として祈っておられます。この地上では聖霊が働き、天ではイエスが祈っておられます。現在、世界では様々な出来事が起こっています。ロシアとウクライナの戦争。コロナウィルスの感染。この終わりの時代、イエスは、現代におけるイエスの弟子である私たちに祈りを要請しています。「私と一緒に目を覚まして、祈っていて下さい」 寝ていては祈ることはできません。実際の目も、そして、霊的な目も開けていなければいけません。
イエスはひれ伏して祈りました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)
並行箇所のルカの福音書22章43,44節を見ると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。とあります。イエスにとって、これは大きな戦いでした。祈りは戦いという領域があります。神と格闘し、直面している現実と格闘します。そのような戦いに勝利できるように、神が天使を遣わし、イエスを助けました。私たちの祈りも助け主である聖霊が助けてくださいますが、天使も私たちを助けてくれます。
『天使に慰められるイエス』/ カール・ハインリッヒ・ブロッホ
イエスはまず正直に、自分の願いを言いました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39節)。」人間的には肉体的には杯=十字架を逃れたかったのです。十字架から逃れる誘惑が常にあったでしょう。違う形の救い主(メシヤ)になる誘惑です。
荒野で悪魔がイエスを誘惑しました(マタイの福音書 4:1-11)。十字架を避けて、救い主になる道へ連れて行こうとしました。石をパンに変える、経済的なメシア。日本でもそうです。経済が良くなれば首相の支持率は上がります。貧しい国ではなおさらです。神殿から飛び降りても大丈夫、無傷、そのような奇跡を行なうメシア。皆から驚かれる超人。現代でも高層ビルから飛び降りて無傷であったらヒーローになれるでしょう。そのような誘惑を悪魔から受けました。それらの誘惑をイエスは「聖書にはこう書いてある」と言ってみことばによって退け、勝利されました。
イエスはパンを増やしましたし、様々な奇跡も行いました。これらはもちろん悪いことではありません、当然良いことです。イエスの奇跡によって人々の必要は満たされ、苦しみから癒され解放されました。しかし、イエスがこの地上に来られた一番の目的は何であったかということです。それは人類の、私たちの罪の身代わりに十字架に架かるためでした。
イエスは万軍の天使を呼び、ローマの兵隊たちから逃れることができました。しかし、それは父なる神の願いではないことを知っておられました。ですから、あなたの御心(父なる神が私に願っておられること)をなさってください、と祈られたのです。
まさに弟子たちに教えられた「主の祈り」(みこころがなりますように)を実践されました。そして、現代に起きる私たちにも模範を示されています。祈りにおいて神と格闘した後、最後には神の御心にゆだねる信仰です。残念ながら、祈りが私たちの願い通りに全てがかなえられるということはないでしょう。しかし、私たちは神が人生において最善をなされているということを信じることができます。神は愛なる神で、私たちの人生に最も良いと思われることをしてくださいます。私たちが自分を知る以上に、神は私たち一人ひとりのことをご存じです。
イエスが戻ってきました。「目をさましていなさい」と言っておいたのに、3人は目をさましていることができませんでした。
『ゲツセマネの祈り』/ ベッリーニ作
イエスは彼らに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、目をさましていることができなかったのか(40節)。」自分と心を合わせて祈ることができない弟子たちを見て、イエスの孤独は更に強くなったことでしょう。この試練に一人で立ち向かわなければなりません。仲間がいない、自分のことを誰も理解してくれないというのは、非常につらいことです。弟子たちも恥じ入ったことでしょう。
イエスは弟子たちに同情を示し言われました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです(41節)。」弟子たちの心は燃えていました。しかし、体が弱かった。心は燃えていても、本当に私たちの肉体は弱いです。すぐに眠くなってしまいます。祈ろうと思ったら、まず祈りの前に、目をさますことが先行します。ですから、祈ろうと思ったら、まずどのように目をさますことができるかを考えなければなりません。私の場合は、早朝まずコーヒーを入れて飲みます。そして歩きながら祈ります。眠らないためです。
イエスはまた弟子たちから離れて祈りに行きます。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください(42節)。」最初の祈り(39節)よりも決意がかたまりつつあるように思います。杯(十字架)を受け入れ、神の御心に従う決心をしています。イエスは2度目の祈りをされて戻ってきましたが、弟子たちはまた前と同じように眠ってしまっていました。どうしても目をあけていること、起きていることができなかったのです(43節)。
イエスは3度目の祈りへ行きます(44節)。弟子たちはまたもや眠ってしまいました。イエスは彼らを起こし、言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです(45節)。」
『ゲツセマネの祈り』/ アンドレア・マンテーニャ作
私たちは目をさまして祈っているでしょうか。今は世の終わりの時代です。第3次世界大戦がいつ起こってもおかしくない、今回のロシアの動きから私たちはそれを感じ取ったのではないでしょうか。ロシアはウクライナを攻めましたが、将来、イスラエルを攻めることが聖書に預言されています。イエスの再臨が近づいていると思います。私たちは霊的にも、実際的にも目をさまして祈りましょう。
「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。ついに裏切る者が近づきました(46節。)」 ユダがやってきました。イエスが捕らえられ、十字架への道を進む時がきました。イエスは「立ちなさい」と弟子たちに言っていますが、自分自身にも言っているように感じます。イエスはゲツセマネの園での祈りを通して、神の御心を受け入れ、祈りに勝利していきました。そして、十字架という罪との戦いのために立ち上がり、出て行ったのです。
私たちは祈りを通して、神の御心を知り、神のご計画を確信することができます。そして、自分の願いではなく神の御心に従う力が与えられます。イエスは今、天からこの世界をご覧になり、とりなしの祈りを捧げています。憎しみによって戦争が起こっていること、人々がイエスを信じないで罪のゆえに滅びに向かっているこの状況を見て、とても悲しんでいると思います。
イエスは、ゲツセマネの園で弟子たちに自分と心を一つにして目をさまして祈って欲しいと願われましたが、今、現代のイエスの弟子たちに(私たちに)、目をさまして祈って欲しいと願っておられます。祈るべきことはたくさんあります。ウクライナにいるユダヤ人がイスラエルに帰還できるように祈りましょう。家族の問題、自分の生活や人生についても祈りましょう。
祈りは戦いです。でも祈り抜いた後に開かれる領域というものがあります。私たちは立ち上がる力、直面している問題に立ち向かう力が与えられます。「目をさまして、祈っていなさい」というイエスのご命令に、聖霊の助けによって、応答していきましょう。
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