生きた証し

人は福音を拒絶することはできますが、証や体験は否定することはできません。ですから生きた証を持つということはとても大切です。生まれつき盲人の人がいましたが、イエスと出会うことによって癒されました。聖書にこのように記されています。

1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。8 近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」9 ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は「私がその人です」と言った。10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」16 すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」彼は言った。「あの方は預言者です。」18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。」20 そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。」22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください」と言ったのである。24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネの福音書9:1-25)

イエスに癒された盲人は「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」と言います。これはとても力強い証しです。

ジョン・ニュートンも、人生が変わる体験をしました。彼は黒人の奴隷貿易に関わり、黒人をひどく扱っていましたが、転機が訪れました。彼の乗っていた船が嵐に遭い、船体は損傷し、破損した船体の部分から海水が流れ込み、ついには転覆しそうな危機に陥ったのです。いのちさえ危うくなりました。彼は人生で初めて神に真剣に祈りました。絶望的な状況が長い時間続きましたが、彼の祈りは答えられ、強風が次第に弱まり、浸水もおさまっていったのです。沈没の危機から救われました。後に良心の呵責を覚えて、黒人の奴隷貿易から身を引きます。そして自分を救い出してくださった神に仕えるために牧師になりました。

ジョン・ニュートンは自分の人生になされた驚くべき神の恵みに感動して、感謝しつつこの時の体験(生きた証し)を用いて作詞しました。彼は自分の体験とヨハネ9:25を合体させて作詞したわけです。それが讃美歌の中でも超有名な 「アメイジング・グレイス」=「驚くべく恵み」です。Grace(恵み)とは、本来祝福を受けるに値しない者に注がれる神の愛のことです。

アメイジング・グレイスは讃美歌の中で最も有名な曲と言っても過言ではないでしょう。この曲の作詞は18世紀イギリスでジョン・ニュートン牧師によって書かれました。

英語の一番の歌詞は以下の通りです。

Amazing grace!
That saved a wretch like me!
I once was lost but now I am found
Was blind, but now I see.

いろいろな日本語訳がありますが、私の訳はこうなります。

何という驚くべき恵み! 

私のような惨めな者が救われるとは! 

私はかつて失わていたが、今は見い出されている             

かつては盲目だったが、今は見える                 

ジョン・ニュートン(1725年–1807年)

彼の体験がアメイジング・グレイスの歌詞にあらわれています。「自分のような黒人を酷く扱っていた者が救われた。かつては神の前に失われていたのに、今は神に見出された。かつては何も見えていなかった、神を知らなかった。でも今は見える、神を知っている。」

聖書には多くの奇跡が記されていますが、盲人の癒しは旧約聖書には一度も出てきません。盲人の癒しは救い主のみわざ、新約のみわざです。

16 それから、イエスは自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」20 イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカの福音書4:16-21)

ここは二重の意味で解釈することができます。実際の目が開かれ、見えるようになること。そして、生まれつき霊的に盲目状態である罪人の霊の目が開かれ、イエスを信じ救われること。私たちは元々は暗闇に属していました。悪魔によって目が閉じられていました。しかし、光であるイエスによって暗闇から光に移され、悪魔の支配から逃れることができたのです。

盲人の人を見て、「この病気は誰の罪の結果ですか」(2節)と弟子たちはイエスに質問しました。イエスは「神のわざがこの人に現れるためです。」(3節)と答えられます。

私たちの人生に、家族に、身の周りで、なぜこのような問題が起こるのだろうか、と思うことがあるのではないでしょうか? 神の答えは、「神のみわざが起こり、神の栄光が現れるためです」。これは希望に満ちた言葉です。

イエスは言われました。私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。誰も働くことのできない夜が来ます(4節)。今は光があります。なぜなら、三位一体の神が働かれているからです。しかし、誰も働くことのできない夜が来ます。これは近づいています。悪魔が世界を支配する時、反キリストが世界をコントロールする恐ろしい世界がいずれ来ます。夜が来ます。これは聖書に預言されています。しかし、今は昼です。光のある間に私たちは福音宣教のわざを行わなければなりません。

イエスは癒し主です。イエスは私たちの病を癒すことができ、私たちの問題を解決することができます。人生には様々な問題が起こります。なぜ?という疑問が湧いてきます。しかし、多くの場合、神のわざが現れ、神の栄光が現わされるためなのです。

パリサイ人たちは癒された盲人に「どのようにして見えるようになったのか」と質問しました(15節)。盲人は答えます。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」(15節)

しかし、彼らは信じようとしませんでした。しつこい彼らに彼ははっきりと言います。「私は多くのことを知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25節)

私たちにもこのような明確な証が必要です。いえ、すでに証しがあるはずです。実際にイエスによって人生が変わったという体験談には説得力があります。クリスチャン一人一人に生きた証があること。これが大切です。祈りが答えられた、というのも大きな体験になります。このような体験をすることは、私たちの信仰を強めます。「主よ。私たちに生きた証しをお与えください」

18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ人への手紙1:18,19)

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投稿者:canaan

首都圏で10年間牧師をしていましたが、現在は地方のキリスト教会で牧師をしています。旅行会社と農場の経営もしています。私自身が様々なことばで力づけられてきたので、希望に満ちたことばをお伝えしたいと願っています。I used to be a pastor in the metropolitan area for 10 years, but now I am a pastor at a local Christian church. Also I run a travel company and farm. I myself have been empowered by various words, so I would like to convey the hopeful words. 

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