私たちは「古い人」から、イエス・キリストを通して、「新しい人」にされています(コロサイ3:10)。すなわち、リニューアルされています。私たちは新しく造られた者です。古いものを過ぎ去って、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。すでにイエス・キリストを通して、新しくされています。今、私たちは古い人ではなく、新しい人です。罪人ではなく、罪を赦された人です。悪魔の支配にあるのではなく、神の支配にある人です。しかし、一方でいまだに古い人の性質が残っているのも事実です。完全な意味で新しい人になるのは、天国に行ってからでしょう。この地上で、私たちがますます新しくされていくこと、イエス・キリストに似た姿へと変えられていくことを神は願っておられます。ですから、日々、古いもの(3:5)を脱ぎ捨てていくことが大事になってきます。そうでないと、古いもので心がいっぱいになってしまいます。部屋の後片付けもそうですね。古いものを捨てていかないと、ゴミがどんどん溜まっていってしまいます。
12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。16 キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。17 あなたがたのすることは、ことばによる行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。20 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主にあって喜ばれることだからです。21 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。22 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。24 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25 不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。4:1 主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。(コロサイ人への手紙 3:12-4:1)
私たちはイエス・キリストにあってどのような者でしょうか?新しい人です。他に言い方があるでしょうか?私たちは、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者です(12節)。
選ばれた者。私たちは神に選ばれました。エペソ人への手紙1:4にこのように書かれています。神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。特にこの日本では神の選びを強く感じます。日本にクリスチャンが1%しかいないのに、私たちは選ばれて、イエス・キリストを信じ、そして教会(礼拝)に集っている。これは驚くべきことです。神の一方的な恵みであり、選びです。それ以外にありません。私たちが何かをしたわけではありませんので、感謝しかありません。
次に聖い者。もともとは「切り離す」という意味がありました。この世から切り離され、切り分けられ、神のものとされたということです。クリスチャンはこの世にいても、この世のものではありません。ヨハネの福音書17:16にこうあります。わたしがこの世のものでないように、彼らも(弟子たちも)この世のものではありません。私たちはこの世に属する者ではなく、神に属する者です。しかし、私たちはこの世のものではありませんが、この世から逃げる者ではなく、この世で光を放つ者です。私たちはこの世から出て行くことはできません。この世で「新しい人」として生活します。それがコロサイ人への手紙 3:18-4:1に記されています。家庭において、職場(社会)において、新しい人として歩みます。主イエスのお名前によって、語り行動するということです(17節)。
エリザベス女王の葬儀が昨年ありました。エリザベス女王はイエス・キリストを自分の救い主として信じていました。彼女は新しい人として歩み、女王としての仕事をしていました。葬儀はテレビやインターネットを通して約40億人が見たそうですが、私も生中継で見ました。本当に素晴らしい葬儀で、復活の希望に満ち溢れていました。エリザベス女王の信仰があらわれていたようです。葬儀のほとんどが賛美と聖書朗読で占めていて、福音的でした。コロナ禍で世界伝道が難しい状況の中で、全世界に対する大伝道集会になったと思います。
エリザベス2世(1926年4月21日 – 2022年9月8日)
最後に愛されている者です。私たちは神に愛されています。父なる神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの罪の身代わりに主イエスを十字架に架けるほどに、私たち一人一人を愛してくださっています。
聖書は私たちに語ります。5つのものを身に着けなさい、と(12節)。前回は5つのものを脱ぎ捨てなさいという箇所を見ました(3:8)。パウロは新しい人を着物にたとえています。古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着る。
新しい人の特徴を3つ見たいと思います。
①愛を着けなさい(14節)
私たちは神に愛されています。まず神が私たちを愛してくださいました。これは本当に驚くべきことです。全世界を治めておられる神様、エリザベス女王よりもはるかに偉大な王の王である神様が、私に目を留めてくださった。女王に声をかけられたら嬉しいですよね。でもそんなレベルではない、神様が私に声をかけてくださったのです。ですから、神の愛に応答して、神を愛し、そして隣人を愛します。主イエスが仰いました。神を愛し、隣人を愛することが最も大切な戒めであると。
②キリストの平和が自分の心を支配しています(15節)
イエス・キリストは私たちに平和、平安を与えてくださいます。それは神の平安(キリストの平安)です。主イエスが約束されています。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはいけません。恐れてはなりません(ヨハネの福音書14:27)。イエスが与えてくださる平安は、この世が決して与えることのできないものです。この世で生活をすると、様々な不安がやってきます。人によっては眠ることができません。しかし、イエスはいつも平安でした。
ある時、イエスと弟子たちは舟で向こう岸へ向かっていましたが、嵐がやってきました。弟子たちは不安でいっぱいになりました。舟が沈むんではないか、ここで死んでしまうのではないか、と恐れました。私たちも自分の人生が沈んでしまう、ダメになってしまうと失望し、希望を見出すことができなくなる時があるかもしれません。そういう時でしたが、イエスは舟の中で何をしていたのでしょうか。イエスは平安のうちに眠っておられました。なぜ眠っていることができたのでしょうか。イエスは必ず向こう岸に着くと分かっていたからです。ご自身が発した言葉が実現すると確信していました。主イエスは仰いました。「向こう岸へ渡ろう」。
私たちの舟(人生)も大丈夫です。なぜなら、私たちの舟には主イエスが一緒に乗っておられるからです。イエスは嵐に命じました。「嵐よ。沈まれ。」イエスが、私たち一人ひとりの嵐(問題)を静め、解決を与えてくださいます。私たちは向こう岸へ、目的地へ無事に着くことができます。イエスが共におられるので、私たちには平安があります。
③キリストの言葉を住まわせています(16節)
みことばは道を照らす光です。あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です(詩編119:105)。この世界は闇です。ですから、迷ってしまい、どこへ進んだらよいのか、どのように歩んでいったらよいのかが、分からなくなることがあるかもしれません。でも神に感謝します。私たちにはキリストの言葉、神のおことば、聖書のみことばがあります。これを毎日読みます。そして住まわせます。イエスがちょっと玄関先に訪問するだけではありません。イエスに一緒に住んでもらう。そうすると、私たちは光の中を歩むことができます。
私たちは、愛を身に着け、キリストの平和(平安)が心を支配するようにし、キリストの言葉をうちに住まわせます。これが新しい人の特徴です。
次に、新しい人の過去、現在、未来を見たいと思います。
まず私たちはイエス・キリストを通して、すでに新しい人にされています。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものを過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。これが過去に、私たちの人生のある時点で起こりました。だから、私たちはイエスを自分の救い主として信じ、洗礼を受けたのです。
次に現在です。私たちは新しくされているけれど、古い人に戻ってしまう。古い性質に引き戻されてしまうことがあります。過去に捕らわれてしまう。神が雪のように白く綺麗にしてくださったのに、着物(心)が汚れてしまう。そのままでいけばいいのですが、なかなかそうはいかないわけです。日常生活を送るうちに、心が汚れてしまうのです。
私たちが罪によって汚れてしまったら、どうしたら良いのでしょうか?古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着ることが大切です。私たちを聖めるものが3つあります。これを最後に見ましょう。大事なのは、御霊と水と血です(Ⅰヨハネ 5:7,8)。
①御霊による聖め
聖霊が私たちを聖めてくださいます。Ⅱテサロニケ 2:13に書かれています。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったのです。
②神のみことば(水)の洗い
私たちは汚れたら、水で洗います。手が汚れたら、水で手を洗い、体全体が汚れたら、全身シャワーを浴び、お風呂に入ります。清潔を保つためです。同じように、私たちの心が汚れたら、洗わなければなりません。洗わないと汚れはどんどん酷くなっていきます。何で洗うのでしょうか?神の言葉によってです。ヨハネの福音書 17:17にこのように書かれています。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
③イエス・キリストの血潮
血液には体内の不要物を運んで、体外に排出させる働きがありますが、イエスの血潮も私たちの心(思い)の中に必要でない悪いものを、思いの外に運んでくださり、清めてくださいます。Ⅰヨハネ 1:7にこうあります。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
聖霊の働き、神の言葉、イエスの血潮。この3つです。三位一体の神が私たちを聖め、私たちが新しい人として歩み続けることができるように助けてくださいます。私たちは、イエス・キリストを通して、すでに新しい人とされていることを確信しましょう。そして古い人ではなく、新しい人として歩むために、日々聖められていきましょう。それでも古い人の性質に苦しむことがあるかもしれません。でも私たちには希望があります。将来、天国で完全な意味で新しい人になることができます。これが未来です。
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