一般的にはクリスマス(イエスの誕生)の方が有名かもしれませんが、キリスト教の信仰にとってはイースター(イエスの復活)の方が大切であり、重要であると言えます。クリスマスのイエスは、赤ん坊で可愛いですが弱々しい感じがします。しかし、イースターのイエス、死を打ち破りよみがえられたイエスは、かっこよく力強いです。イエス・キリストの復活こそ、その生涯におけるハイライト、最も素晴らしい出来事だと言えます。もしイエスが墓の中で死んだままだったら、新約聖書が書かれることも、キリスト教が全世界に広まることも決してありませんでした。イエスがよみがえられたからこそ、新約聖書は書かれ、福音は全世界に宣べ伝えられたのです。
1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」8 女たちはイエスのみことばを思い出した。9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。11 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。12 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕(ルカの福音書 24:1-12)
1)復活に対する不信仰
女たちとは10節に記されている女性たちで、彼女たちは最後までイエスについて行き、イエスの十字架の死を目撃しました(ルカ23:49)。またイエスの遺体が墓に納められる様子も見ました(ルカ23:55)。
イエスは午後3時頃、息を引き取りました。ユダヤでは一日の始まりは日没とともに始まるので、もう安息日が近づいていました。ですからあまり時間がなく、簡単な埋葬しかできなかったのでしょう。十分な埋葬ができなかったので、イエスの遺体をもっと手厚く葬るために香料を用意したのかもしれません(ルカ23:56)。
彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に着きました(24:1)。香料を準備していたということは、イエスの遺体に塗るためなので、彼女たちはイエスの復活を全く期待していなかったことが分かります。信じてもいませんでした。しかし、彼女たちにはイエスに対する真実な愛がありました。イエスによって自分の人生が変えられ、自由と平安、希望が与えられていたので、そのイエスの愛に応答しようとする心がありました。その愛が彼女たちを行動へと駆り立てました。イエスは私たち一人ひとりをいのちを賭けて愛してくださいました。私たちもイエスの愛に応答していきたいと思います。
彼女たちは墓へ行く途中で墓の石をどかしてくれる人を依頼していなかったことに気づきました。並行箇所のマルコの福音書16:3に 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。と書かれています。
ユダヤの墓は、男性数名でやっと転がすことができる大きな石でふさがれていましたので、肝心の墓石を動かせないならイエスの遺体に香料を塗ることができないので、あきらめて帰ってしまってもおかしくない状況でした。しかし、彼女たちは帰らずに、「あの大きな石をどうしましょうか」と言いながらも、とりあえず墓に向かって行ったのです。ところが墓に着いて見るとどうでしょうか。何と、石が墓からわきに転がしてあったのです(2節)!
その石を転がしたのは天使でした。彼女たちが心配していた墓の石のことを、神は天使を遣わしてすでに解決してくださっていたのです。私たちは場合によっては、石が取り除かれたら踏み出そうとする傾向があるかもしれません。しかし、私たちが出て行く時に、行動する時に、大きな石が取り除かれるという神のみわざを経験することができます。
私たちにとって「大きな石」とは何でしょうか? 障害物や困難は何でしょうか? 神は私たちの人生から石を障害物を取り除こうと計画しておられます。また悪魔は私たちに「大きな石」を見せようとしてきます。本当は小さな石(困難)でさえも大きな石(困難)のように見せて、私たちの信仰の歩みを引き返させたり、立ち止まらせようとしてきます。でも私たちは大きな石や大きな問題に目を向けるのではなく、目を上げて問題を解決できる、問題よりも大きく偉大な神を信頼していきましょう。その時に、「石が墓からころがしてあった」「困難が取り除かれていた」という出来事が、神のみわざが、私たちの人生に、教会の働きに起きてくると信じます。
2)復活に対する信仰
女性たちが墓に着くと、あるはずの主イエスのからだはありませんでした(3節)。彼女たちが途方にくれ、何が起こったんだろうかと驚いていると、二人の天使が現れました(4節)。そして彼女たちに言いました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(5,6節)
エルサレムには、イエスが葬られたとされているお墓(園の墓)があります。私が7年前、イスラエル旅行に行った時、そこへ行きました。墓の入り口には、一つの言葉が英語で記されていました。「He is not here. He has risen.」 (彼はここにはおられません。彼はよみがえられました。)この英語を日本語に直訳すると、「彼はよみがえられました」となります。でも英語では、過去形が使われているのではなく、現在完了形が使われています。英語の現在完了形は、過去に起こったことが現在も続いている時に使われます。ですから、ここは「彼はここにはおられません。イエス・キリストはこの墓にはおられません。彼はよみがえられ、今も生きておられます」という意味になります。過去ではなく現在に強調点が置かれているのです。何という感動的な言葉でしょうか。
私はその墓に入りました。その墓は今でも空っぽでした。空っぽであるからこそ、希望といのちがあります。もしも、「これがイエス様の骨です」なんていうものがあったら大変です。失望します。今日もいろいろなものがイエス・キリストを墓の中に閉じ込めておこうとします。多くの人々はイエスを死人の中で捜そうとしています。19世紀の有名な哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言いました。この言葉は残念ながら多くの現代人に影響を与えています。
気を付けないと、場合によっては、私たちもイエス様を生きているお方としてではなく、死んでいるお方として、墓の中で捜してしまうという不信仰なことをしているかもしれません。
毎日の生活の中で、イエス様が今も生きておられると本当に信じているでしょうか。毎朝、起きた時に、よみがえられたイエス様が共にいてくださることに興奮しているでしょうか。今日という日にどんなに素晴らしいことが起こるんだろうかと。もしそうでないなら、私たちはもしかすると、イエス様を墓の中で捜してしまっているのかもしれません。
また教会に来る時に、よみがえられたイエス様がいらっしゃるゆえに、どんなみわざを神様はしてくださるんだろうかと、私たちは神様に期待しているでしょうか。もしあまり期待していないなら、何も起こらないことに慣れてしまっているなら、私たちはイエス様を死人の中で捜しているのかもしれません。
彼女たちは、イエスの遺体に香料を塗ろうと思って墓に出かけました。墓の中を一生懸命捜している限り、よみがえられたイエス様に出会うことはできません。イエス様は死を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられます。ハレルヤ! ですから、イエス様を墓の中に、死人の中に捜すのはやめましょう。
よみがえられたイエス様が「墓におられない」ならどこにいらっしゃるのでしょうか。今、私たちと共におられます。イエス様はマタイの福音書28:20で弟子たちに約束されました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
天使は言いました。「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」(7節)彼女たちはイエス様の語られたことを思い出しました(8節)。
イエス様のみことば、聖書の言葉を思い出すことは非常に大切です。決定的に大事であると言っても過言ではありません。ここがクリスチャン生活の分かれ目になります。勝利できるか、敗北してしまうか。いのちに歩むか、死に歩むか。
彼女たちはイエスの死を確かに目撃しました(ルカ23:49)。そしてイエスの遺体が墓に葬られる様子もしっかり見ました(ルカ23:55)。ですから、彼女たちを支配していたのは、「死」でした。しかし、今、天使のことばを聞き、イエスが語られた言葉を思い出しました。それは「いのち」のことばです。よみがえりのニュースです。逆転のメッセージです。そのみことばを思い出しました。これが勝利の秘訣です。御言葉を思い出すことによって、死と決別し、過去と決別できたのです。いのちが彼女たちを治め始めました。
しかし、みことばを思い出せないと、私たちは残念ながら敗北してしまいます。なぜでしょうか?いつまでも死と過去に縛られ、また現実の状況と環境に支配されて生きることになってしまうからです。そこから希望は生まれません。不信仰の歩みになってしまいます。でも、イエスのお言葉を思い出し、受け取るなら、信仰が与えられます。今は目に見えなくても、何か変化が起こっていることを信じることができます。そして希望を持つことができ、復活のいのちに溢れて生きることができます。
3)復活の証人
女性たちは、イエスが語られたお言葉を思い出した後、どうしたでしょうか。彼女たちは、よみがえられたイエスのことを他の人たちに報告しました(9,10節)。私たちも「イエスがよみがえられ今も生きておられる」という重大なニュース、驚くべき良き知らせを他の人たちに伝えるべきです。これが教会の使命です。私たちが福音を語らなければ、宣べ伝えなければ、イエス・キリストの福音を聞くことができない人々がいます。私たちはイエス・キリストの証人として選ばれています。私たちには、イエスの復活を通して、死に勝利するいのちが与えられています。しかし、この世はまことのいのちを持たず、死に支配されています。あの女性たちのように、福音を伝えていく者でありたいと思います。
使徒たちは彼女たちの話を信用しませんでした。信じませんでした(11節)。しかし、この使徒たちは、自分自身がよみがえったイエスにお会いすることによって、彼女たちの証言が真実であったことを体験します。私たちが復活のイエス様を語る時に、人々は信用せず、信じないかもしれません。でも、12節のペテロのような出来事も起こるでしょう。私たちの話に興味を持ち、立ち上がって教会へ来て、のぞき込む人が出てくるでしょう。ですから、大事なことは、私たちが知っている、体験しているイエス様の復活を他の人、周りの人に報告すること、話すこと、伝えることです。
イエス様は死を打ち破りよみがえられ、今も生きておられます!イエス様は勝利者です。イエス様を信じる私たちも勝利者になることができます。ですから、生きておられるイエス様を墓の中に、死人の中に捜すのをやめましょう。イエス様が今、私たちと共におられることを覚えて、歩んでいきましょう。
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