人間の心には渇きがあります。人間はその渇きを癒そうとしますが、この世の様々なものは私たちの渇きを癒してくれないばかりか、かえって一層の渇きを加えます。ドイツの哲学者ショーペンハウアーは「富は海の水に似ている。それを飲めば飲むほど、喉が渇いてくる」と言いました。
お酒を飲む人は飲めば飲むほど飲みたくなるものです。地位が高ければもっと高くなりたいし、事業が大きければますます大きくしたいし、金銭を多く持つ人ももっと多く欲しいと思うものです。この世が与えるものは、渇きを深め、なおー層の不満を感じさせるばかりで、渇きを解決してくれません。
以前、芸能人たちの自殺が報じられていました。いろいろな理由があると思いますが、最大の理由は心が満たされなかったためではないでしょうか。今日の登場人物、サマリヤの女も渇きを持っていました。
1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知らせたとき、2 ―イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが―3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」―ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。―10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人を求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネの福音書4:1-26)
「キリストとサマリアの女」/ヨーゼフ・フォン・ヘンペル作(19世紀)/オーストリアの画家
イエスの働きは更に拡大し、バプテスマのヨハネよりも弟子を多く作っていました。一躍超有名人になっていました。イエスはユダヤを去って、ガリラヤに行かれました。日本の感覚で言えば、東京、首都圏から北の方、東北や北海道へ行く感じです。その時にサマリヤを通っていかなければなりませんでした。ユダヤからガリラヤへ行くのに、サマリヤという地方がありました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が良くなかったので、多くのユダヤ人はサマリヤを避けて、遠回りしてガリラヤへ行っていました。しかし、イエスはサマリヤを通っていかなければなりませんでした。それはサマリヤで苦しんでいる一人の女性を救いに導くためでした。イエスは失われた人に対する愛と情熱を持っておられました。
イエスが死から復活し、昇天される前に弟子たちにお命じになった言葉はこれです。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)イエスは将来の弟子たちのために、サマリヤ伝道の道を備えられ、模範を示しておられたのです。
イエスは旅の疲れを覚え、井戸のかたわらに腰をおろされました(6節)。喉が渇きました。ここに人間イエスを見ます。イエスは受肉によって、神が人になることによって、人間の赤ちゃんとして誕生することによって、弱くなりました。ですから、私たち人間の弱さに同情できるお方です。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(へブル人への手紙4:15)
第6時とは、ユダヤの時間にすると、昼の12時、正午です。一番暑い時間帯です。中東のお昼はとても暑いので、人々は外に出ずに家の中で過ごしたでしょう。しかし、そこに一人のサマリヤの女が水を汲みにやってきました(7節)。彼女は隠れて来たのです。誰も外に出たがらないような暑い時に、井戸へ水を汲みに行きました。誰とも会わなくてすむためにです。これはちょうどニコデモが夜に来たようなものです。イエスは彼女に声をかけられます。「わたしに水を飲ませてください」(7節)
サマリヤの女性は驚きました。なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人はつきあいをしていなかったからです(9節)。お互いに長い間、反目していました。紀元前721年に北王国イスラエルの首都サマリヤはアッシリヤに占領され、多くの住民が捕虜になりました。やがて、新しく移住してきた他民族との結婚により、サマリヤ人は混血となり、他の民族が拝んでいた偶像を礼拝するようになっていったのです。そのために、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、両者の対立は根深いものになって、そのような状態がイエスの時代まで何百年もずっと続いていました。
「イエスとサマリヤの女」/グエルチーノ作(17世紀) / イタリアの画家
イエスは彼女に「私はあなたに生ける水を与えることができる」とおっしゃいました(10節)人間の霊的な渇きを癒す「いのちの水」のことを言われたのです。彼女は霊的に理解すべきでしたが、文字通りに取ることしかできませんでした。「あなたは汲むものを持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか」(11節)
これはニコデモの反応と非常によく似ています。イエスはニコデモに言われました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネの福音書3:3) 彼はこのように反応しました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(ヨハネの福音書3:4)
ニコデモも最初は文字通りの解釈しかできませんでした。霊的な解釈ができなかったのです。でも、はじめに悟ることができなかったことが、のちには霊の目が開かれ、イエスの十字架を信じて、ニコデモはイエスを埋葬しています。聖書を字義通りに解釈することはとても大事ですが、霊的な解釈も大切になってきます。
イエスは彼女に言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(13,14節)彼女は言います。「私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」(15節)井戸を汲むという肉体労働から解放されたかったのでしょう。また人目を避けることにも疲れていたのかもしれません。労働と恥から救い出されたかったのだと思います。「そんな便利な水があるならぜひとも欲しい」と言いました。
最初はイエスが「水をください」と言っていたのに、いつの間にか、この女性がイエスに「生ける水を私にください」(15節)と言うように変わっています。しかし、彼女の理解はまだ物質的な目に見える水にとどまっています。霊的に悟ることができていません。目に見えない領域を理解することができていませんでした。
「キリストとサマリヤの女」/ ベネデット・ルティ作(1715-20年)/ イタリアの画家
ここで突然話題が変わります。イエスは彼女の痛いところを突きます。彼女の問題に切り込み、罪を指摘しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16-18節)彼女は結婚では心の渇きを満たすことができずにいました。結婚で幸せを手にすることができるかもしれませんが、心の渇きは満たされないでしょう。では子供が与えられたらと思います。子供が与えられることは大きな祝福ですが、心の渇きは満たされないでしょう。
キリスト教には大きく二つの啓示があります。一つは神についてです。もう一つは私たち人間についてです。自分自身の真の姿に目覚めていく。罪の意識が生じる。自分には神が必要であることを悟る。自分の真の姿を知ることは、真の神を知ることにつながっていきます。そして、イエス・キリストがどのようなお方かを知ることができるようになります。サマリヤの女がそうでした。
彼女は自分の罪が示され、イエスに質問します。「いけにえはどこで捧げるべきでしょうか。」 のどの渇きの問題が心の渇きの問題へと、そして神を礼拝する問題へと発展し展開されていきます。
イエスの答えはこうです。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(23,24節) 神は霊ですから、目に見えません。神が霊であるなら、神に対する供え物は、霊の供え物でなければなりません。現代においても、神は真の礼拝者を求めておられます。
彼女のイエスに対する評価が上がっていきます。まず先生から預言者に格上げされました(19節)。そして、預言者から救い主へと進みます。「あなたと話しているこのわたしがそれです(私がメシヤです)。」(26節)先生→預言者→救い主。
「キリストとサマリヤの女」/ フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー作(19世紀)/ オーストリアの画家
「わたしがそれです」と、イエスはメシヤ宣言をします。私たちはここで神と出会い、決断を迫られます。イエス・キリストを救い主と信じることによって、私たちに生ける水、永遠のいのちへの水が流れ始めます。水→生ける水→永遠のいのちへの水。
サマリヤの女は心に渇きがありました。男によって満たそうとしていました。しかし、満たされなかったのです。彼女の渇きをイエスは満たすことができました。アウグスティヌスは著書『告白』で書いています。「我々の心は、あなたの中に(イエス・キリストの中に)憩うまでは安らぎが得られない。」
古代最大の神学者アウグスティヌスは青年時代、放蕩の限りを尽くし、享楽にふけりました。しかし、彼の心が満たされることはありませんでした。むなしさと苦悩でいっぱいになり、人生に絶望していたのです。しかし、彼が31歳の時に聖書を読み、イエス・キリストに出会い、人生の転機が訪れ、希望と平安を得ました。そして彼は上記のように告白したのです。
私たちの人生における渇きをこの世の何物も満たすことはできません。もしかしたら、一時的に満たしてくれるものがあるかもしれません。しかし、それは長続きしないでしょう。でも良き知らせがあります。イエスは私たちの心の渇きを満たしてくださいます。
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