エデンの園に置かれた人間の使命は主に二つありました。一つ目はエデンの園を耕すこと。二つ目はエデンの園を守ることでした(創世記2章15節)。聖書にはこのように書かれています。
15 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。16 神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(新改訳聖書 創世記2:15-17)
人が耕すことによってはじめて農作物が生じました。エデンの園は働かないで楽をして生活をする場所ではありませんでした。働くこと、労働することは、神から人間に与えられた目的の一つです。耕すはヘブル語で「アボダー」です。この言葉には、仕事、奉仕、礼拝という意味があります。労働は人間が堕落する(創世記3章)以前からありました。
日曜日は確かに聖なる日で、この日を聖別して教会へ行き、神を礼拝することはとても大事です。しかし、日曜日だけが聖で、月曜日から土曜日は俗であるとするなら弊害があるでしょう。なぜなら毎日の労働も神への礼拝、奉仕となるからです。子供は遊ぶことが仕事でしょう、学生は勉強すること、社会人は働くこと、主婦は家事や子育てが仕事になります。自分が置かれている場所で、与えられている仕事を一生懸命に最善を尽くすことを神は喜ばれます。ペテロたちはいつものように漁師としての仕事をしている時に、イエスに召し出されたのです(マタイの福音書4:18-22)。天国は労働をしないでただダラダラと生活する場所ではないと思います。
「エデンの園」 ルーカス・クラナッハ作/ルネサンス期のドイツ人画家。
エデンの園にはいろいろな木が生えていました(2:9)。それらの木から自由に食べることがアダムとエバには許されていました。あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい(16節)と。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が生えていました(2:9)が、善悪の知識の木から食べることは神から禁じられていました。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない(17節)。いのちの木の実には、食べれば永遠に生きる成分がきっと入っていたのでしょう。後に罪を犯したアダムとエバに神がこのように言われました。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように(創世記3:22)。
本来、善悪の判断は神がすることですが、善悪の知識の木の実は、食べれば自分たちで善悪の判断をするようになるという実であったと思います。神が善悪の知識の木をエデンの園に置かれたのは、人間を奴隷としてではなく、またロボットとしてではなく、自由に選択できる存在として造られた証拠です。奴隷やロボットには自由がなく、主人に絶対服従です。神はそのような形での従順ではなく、人間が自由意志を使って自分の判断で自由に選択して、神に従うことを望まれたのです。しかし、自由には責任が伴います。神は仰せられました。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(17節)。 彼らは善悪の知識の木を食べたので、この神の言葉通り、死を刈り取ることになりました。それは霊的な死であり、肉体的な死でした。
「善悪の知識の木」 ルーカス・クラナッハ作/ルネッサンス期のドイツ人画家
善悪の知識の木は、人間をテストする木であったと言えます。合格すれば罪を犯すことがない存在になることができたのだと思います。それは天使を見れば分かります。天使にもそのようなテストの時がありました。天で戦いが起こった時に(創世記1:1と1:2の間に。参考:https://canaan.blog/lucifer/)、三分の一の天使は神に敵対し、三分の二は神につきました(黙示録12:4)。この戦いで神に反抗した天使が神によって裁かれ悪魔と悪霊に堕落してしまったのです。この時にそれ以後の状態が確定しました。この後、天使の中で悪霊に堕ちた天使がいたでしょうか?いません。そのような記述は聖書にありません。悪霊の中で天使になった悪霊がいたでしょうか?いません。これと同様に人間がこのテストに合格していれば、永遠に人間は罪を犯さない存在になれたのではないでしょうか。ちょうど神に従った天使たちのようにです。一度天国に行くと私たちの状態は永遠に確定します。永遠に天国で暮らすことができます。罪を犯すことがなくなります。本当に素晴らしいことです。
私たちは人生において何でもすることができる自由があります。しかし、必ずその選び取った選択の責任を取ることになります。蒔いた種は刈り取ることになるので、悪い種ではなく良い種を蒔きたいと思います。死ではなくいのちを刈り取ることができますように。
「善悪の知識の木」とは、アダムの時代から現代に至るまで、「あなたは神に従うのか、それとも神ではなく自分の思いや願いに従うのか?」と、神から人間へ向けて問われているテストである、と言えるでしょう。
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