十字架の死の後に、復活の希望があります。でも十字架と復活の間に、埋葬(葬られた)という安息があることに注目したいと思います。
イエスは墓の中で、十字架の苦しみから解放され休んでおられます。十字架という大きな仕事を成し遂げられ休まれました。それは憩いの時間であり、また復活を待ち望む時間だったと思います。
土曜日、イエスの遺体は一日中墓の中にありました。日曜日の早朝にイエスは復活されているので、墓の中にいたのはおそらく約40時間ぐらい(金曜日の夕方~日曜日の早朝)だったと思われます。ユダヤでは日没とともに新しい一日がはじまるので、金曜日は約3時間、土曜日は24時間、日曜日は約13時間ぐらいとする計算です。いずれにしてもイエスは休まれたのです。
〈聖墳墓教会 Church of the Holy Sepulchre〉 ヴィア・ドロローサの到着地である〈聖墳墓教会〉は、イエスが死なれ埋葬されることになるゴルゴタの丘があった場所とされています。
天地創造の後、神は休まれました。創世記2章2節に書かれています。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 ルカの福音書23章56節にはこのように書かれています。安息日には、戒めに従って、休んだ イエスの遺体を埋葬した後、人々は休みました。イエスも墓の中で憩われ、復活のみわざを待ち望み、希望のうちに墓の中にいたと思います。
キリスト教宣教の内容の中心は何か、福音は何かということがコリント人への手紙第一15章3,4節に記されています。福音とは キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと です。すなわち、イエスは十字架で死んで、墓に葬られ、三日目に死からよみがえられた、ということです。使徒信条にも書かれています。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、」 葬られたことがとても重要視されているのが分かります。それは歴史の中での事実の出来事として、イエスが確かに死なれたことを強調しています。
墓の中にいたのは、短い時間です。イエスは十字架で激しく罪と戦い、悪魔と戦いました。そして勝利されたのです。女のすえとして、創世記3章15節(彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとにかみつく。)の預言の成就として、悪魔のかしらを踏み砕いたのです! イエスは十字架上で、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われました。人類の救いはイエスによって完璧に成し遂げられたのです。そしてイエスは「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って息を引き取られました。
誰がイエスを墓に葬ったのでしょうか。アリマタヤのヨセフという人物です。彼は十字架上のイエスを目撃して変えられた一人でした。ニコデモもそうです。彼らは墓にイエスの遺体を納めました(ヨハネの福音書19章38~42節)。律法によれば木につるして死んだ人をその日のうちに埋葬しなければなりませんでした(申命記21章22,23節)。イエスは金曜日の午前9時に十字架につけられ、午後3時に死なれました。ユダヤでは一日は日没(午後6時)とともにはじまるので、その日はもう2-3時間ぐらいしか残っていませんでした。そこでヨセフは行動を起こしたのです。自分のために用意しておいた墓をイエスのために差し出したのです。これはとても勇気のある行動でした。イエスの仲間であると思われることは非常に危険でした。しかし、ヨセフは自分の信仰を公にしたのです。それまでは臆病なクリスチャンだったヨセフでしたが、十字架上でのイエスに心を動かされました。これが十字架の死の影響力です。
イエスは墓の中で憩いました。休みました。静まりました。復活の希望を持って、神のみわざと介入を待ち望みました。神は、このイエスを、よみがえらされました(使徒の働き2章32節)。
私たちの人生にも、戦いがあり、葛藤があり、苦しみがあり、十字架があります。しかし、十字架から逃げないことが大切です。十字架に生きる道を選んだのなら、自分ができることをし自分の分を果たしたならば、神の御手の中に憩いましょう。休みましょう。静まりましょう。黙りましょう(出エジプト記14章14節)。神のみわざと介入を待ち望みましょう。イエスのように「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と自分の思いや感情を、神の御手という墓の中に葬りましょう。ゆだね明け渡すことを選び取りましょう。静まり主こそ神であることを知りましょう。そうすれば、神のみわざと介入、復活が待っています。十字架(戦い)の後には復活(希望)があると信じます。
スポンサーリンク