キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ人への手紙2章6~8節)
三位一体の第二位格である神の御子キリストが人としてお生まれになった。これが「クリスマス」です。上記のことを神学用語で、「受肉」と言います。英語ではincarnation(インカーネーション)です。私たち人間で言えば、誕生ということになりますが、ここではキリストが肉を受ける、肉を取るということで、受肉と呼びます。
キリストは人間の姿をとられましたが、決して神としての属性を捨てられたとか、神性が縮小制限されたとか、神であることをやめられたということではありません。そうではなく、神であることを保ちつつ、神の本質を変えることなく、人間性というもう一つの存在形態をとられ、人間としての限界をもつようになったということです。
作家のC・S・ルイスが、「受肉がどんなことか知りたければ、自分がなめくじやカニになった場合を想像してみなければならない」と言っているように、神であるキリストはご自分の栄誉や特権を主張せずに、徹底的にへりくだったということです。
C・S・ルイス(1898~1963年)
ですから、クリスマスは一言で言えば、「神が人となった」ということです。神であるキリストが、人間を救うために、肉体を持った人間の赤ちゃんとしてお生まになって下さいました。しかし、普通に生まれたのでは無罪性を保つことはできません。そこで、イエスは処女マリヤの胎内に聖霊によってみごもったのです。
私たちの罪は母親の胎内に宿った時から始まっています。生まれながらに罪の血が流れてしまいます。もしイエスがヨセフとマリヤから生まれていたなら、アダムの子孫として私たちと同じように罪の血統を受け継いでいました。しかし、イエスは聖霊によって誕生したことによって、超自然によって産まれたことによって、罪の血が一滴も流れていません。だから、十字架で流された血には人の罪を赦す力があったのです。
当時のギリシャ人の考え方によれば、肉体は汚れたもので克服すべきものでした。肉体は精神の牢獄であり、救いとは、精神が肉体という牢獄から解放されて自由になることであると考えられていました。神は善であるので悪である肉体をとることはできないと信じる善悪二元論や物質と霊をはっきりと分ける霊肉二元論の思想からはとても受け入れがたいものだったのです。
ではユダヤ人はどうでしょうか。ユダヤ人にとっても、到底受け入れることができるものではありませんでした。ユダヤ人の神は、決して人ではなく、見えない神であり、見える神はすべて偶像として厳しく取り除きました。人を神とすることは、神を汚す重大な罪であると信じられていました。ですから、イエスはユダヤ人から批判され、拒絶されました。人となった神を受け入れるのは耐え難いことだったのです。
アリスター・マクグラス(1953年~)
前オックスフォード大学教授、現在ロンドン大学教授&神学者のアリスター・マクグラスは受肉についてこのように書いています。「イエス・キリストは神を啓示しておられるということ、彼は神を代理しているということ、神として、神に代わって語っており、また神として、神に代わって行動しているということ、それゆえ彼は神であるということです。受肉は、イエス・キリストが神にして人であるという根本的なキリスト教信仰を要約し、明確に主張しています。」
イエスは、見えない神を見える形でこの世に示してくださった受肉した神である、と言うことができると思います。
キリストの受肉にははっきりとした目的がありました。それは十字架への道です。イエス・キリストの肉は罰を受けるためにとられた肉でした。聖書のローマ人への手紙8章3節にこのように書かれています。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じよう形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
祝福と喜びに満ちたクリスマスになりますように。
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