4月12日は「パンの記念日」のようです。1842年のこの日に、日本で初めてパンが焼かれたと読みました。下記の言葉は、イエスがパンを用いて奇跡を起こした記事です。これはこの奇跡を目撃したイエスの弟子ヨハネが書いたものです。
1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸に行かれた。2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。(新改訳聖書 ヨハネの福音書6章1-14節)
イエスの周りには2種類のタイプの人々がいました。まずは群衆です。群衆はとにかく自分の必要を満たしてもらうことをいつも考えていました。特にイエスが病人を癒すというしるしを見たからです(2節)。これは決して悪いことではありません。中には野次馬的な気持ちでついて行った人たちがいたかもしれません。いずれにしても、イエスの近くにいたことは良いことだと思います。しかし、彼らの動機はあくまで受けることでした。
もう一つのタイプの人たちは弟子です。弟子たちとは師匠であるイエスから教えてもらい、イエスを模範とし、イエスのように考え、イエスのように生き、イエスのように働きをしようとする人たちのことです。
群衆はイエスの行かれる場所に集まりました。癒しがあり、必要が満たされたからです。イエスは昔も今も人の必要に応えることができるお方です。なぜなら、イエスはいつまでも同じだからです。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません(へブル人への手紙13章8節)
弟子は群衆とは違います。もちろん彼らもイエスに必要を求めることはありましたが、それよりも人々の必要を満たそうとする側にいました。イエスの働きをサポートしたわけです。イエスと共に働きました。
さて、大勢の人々が山に集まってきました(5節)。約2万人(男が5千人、女が5千人、子供が1万人)ぐらいでしょう。時刻も遅くなってきたので、弟子たちはイエスに提案しました。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」(マタイの福音書14章15節)
しかし、イエスは弟子たちに言われました。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物を上げなさい。」(マタイの福音書14章16節) 人数の多さに弟子たちは圧倒されたでしょう。無理だと感じたことは間違いありません。
イエスからの指示を受けた弟子たちでしたが、発言した人が2人いました。まずはピリポです。彼は言いました。「めいめいが少しずつ取るにしても、200デナリのパンでは足りません」(7節)1デナリは一日分の労働者の賃金です。一日の賃金をざっくりと1万円とすると、200デナリは約200万円と言えます。2万人ぐらいがいたと思われます。ですから1人当たり100円です。日本だとパン1個。要するにピリポは計算して、「パン一個ずつだけ渡すとしても、この人数だと200万円かかります」 どう考えても無理です、というのがピリポの考えであり、出した結論でした。これがピリポの対応です。
一方、弟子でも違う対応をした人がいました。アンデレです。彼は言いました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」(9節) 2万人に対して、「5つのパンと2匹の魚」では到底無理であると思ったでしょうけど、ピリポとの違いがあります。それはとりあえずイエスの元に、自分が今持っている物、自分が見つけた物を持ってきたということです。
イエスは人々を座らせました。そしてパンを取り、感謝を捧げてから、座っている人々に分けられました。イエスが感謝と祈りを捧げると奇跡が起こり、パンが増えたのです。小さい魚も同じようにしました(11節)。魚も増え、増し加わり、人々は皆十分に欲しいだけ食べることができました。パンが余るほどたくさんあったのです(13節)。
<パンと魚の奇跡の教会> イスラエルのタブハのガリラヤ湖畔にある教会。イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させたという奇跡を記念して5世紀に建設されました。現在の教会は、1984年に完成され、5世紀のビザンチン教会と同一の間取りで再建されています。
ここで私たちが教えられること、大事なことは、今自分が持っているもの、与えられているもの(賜物、時間、エネルギー、信仰、お金など)を神に捧げる、神に差し出すということです。パンが10個、100個になるのを、魚が10匹、100匹になるのを待っていてはいけません。
もっと賜物が磨かれたら、もっと時間ができたら、もっと信仰が強くなったら、お金に余裕ができたら、神に捧げますという姿勢では神の奇跡を体験することは難しいでしょう。たとえ少なく思えても、これが一体何になるのかと思われても、それを神に差し出す時に、何かが起こり始めます。
今、開かれている範囲で最善を尽くすことで、神は道を開いてくださると信じます。多くの場合、無から有は生み出されません。もちろん神は無から有を生み出すことができるお方です。この世界は無から生み出されました。でも多くの場合は、主は今あるものを使って働かれることがほとんどだと思います。たとえ100のパンがなくても、1あるなら0だと思わないように気をつけましょう。1を用いて主が増し加えてくださるように祈り求めましょう。
2万人に対して「5つのパンと2匹の魚」は少なく、全く役に立たないように見えたでしょう。しかし、イエスはこれらを用いて、多くの人々の必要を満たされました(11節)。これがない、あれがないではなく、これがある、あれもあるという視点を持ちましょう。与えられているものをどのように見るか、どのように用いるかで、決定的な差が生まれてきます。
こんなものが一体何の役に立つのだろうかと思わないで、今私たちの手の中にあるもの、私たちが所有しているもの、私たちに与えられているものをイエスに差し出すことが大切です。これがアンデレスタイルです。ピリポのようにあまりにも現実的になりすぎて、自分のうちから信仰を外に出してしまわないようにしましょう。そうではなく、うちにある信仰が小さく見えてもアンデレのように、「ここにパンが5つと魚が2匹あります。私の賜物、時間、エネルギー、信仰、お金があります。主よ、これらを用いて祝福して多くの人々の必要が満たされ、神様の栄光が現れるようにしてください」とイエスの元へ差し出していきましょう。そして奇跡を期待しようではありませんか。
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今持っているものを差し出す。