エペソ人への手紙1章で私たちはイエス・キリストにあって、豊かな霊的祝福が与えられていることを見ました。これは救われた後の姿が描写されているわけです。そして、2章に入っていくと、どうでしょうか? 1-3節では、祝福とはほど遠い姿が描かれています。これはイエス・キリストによって救われる前の私たちの姿です。キリストなき人生とはどういうものかが書かれています。
1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです—6 キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ人への手紙 2:1-10)。
執筆中のパウロ
罪とは、ギリシャ語でハマルティアです。それは「的外れ」という意味です。1節に、あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった、と書かれています。私たちは以前は的をはずした人生を生きていました。自分を創造した神を無視した生き方、自分中心の歩みをしていました。私たちは、死んでいた者でした。これは救われる前の状態であり、キリストなき人生を表現しています。
聖書において死とは何を意味するのでしょうか。死とは、消滅ではありません。聖書で死という時、それは「分離」を意味します。また呪いです。反対にいのちとは、祝福です。枝が木から切り離されると、その時はまだ大丈夫に見えるかもしれませんが、しばらくすると枯れます。いのちがあるように見えますが、木から栄養が流れて来ないので、実はすでに死んでいるわけです。私たちも神から分離されると、神から離れて生きていると、いのちと祝福が流れてきません。だから、それは実は死んでいる状態であると聖書は言います。
死には2種類あります。一つは肉体の死です。これは霊魂と肉体が分離することを言います。もう一つは霊的な死です。これは神から離れている状態です。第一の死(肉体の死)に続いて、第二の死、すなわち、永遠に神から引き離されることになります。天国とは反対の地獄に行くことになってしまいます。そんな私たちがイエス・キリストを通して御国を受け継ぐことになったのです。エペソ1:11にこう書かれています。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。地獄から天国へ、死からいのちへ移されたわけです。凄い驚くべき大逆転です。
人間の罪を助長するもの、神から引き離すものが主に2つあります。
一つ目は、この世の流れです。そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い(2節a)
この世の流れとは、人間の常識、伝統、習慣などのことです。それは教育や情報、メディアによって形成されていきます。群衆心理とはとても怖いもので、群衆の中に生まれる特殊な心理状態ですね。多くの場合、衝動的になり、興奮性が高まっていきます。一人一人では合理的な考えができるのですが、集団になると感情的になり、理性が働かなくなります。群衆がイエスを「十字架につけろ」と叫びました。ここにこの世の流れに乗っかることの危険性を見ることができます。ネットの炎上もそうです。ある特定の対象に対して、批判が殺到し、収まりがつかなくなってしまいます。時には、人を自殺に追い込むことがあります。
日本の主要メディア(テレビと新聞)は公平なニュースを伝えているふりをしていますが、その実、非常に偏ったニュースを流し、世論を作り上げています。日本の報道自由は非常に低いです。世界で71位です。この終わりの時代、今まで以上に、主要メディアの情報を疑うことが大事になっていくでしょう。私たちは正確な情報を得ていく必要があります。日本のメディアは偏見によって、ある特定の力が働いていることによって、明らかに反イスラエルの立場でニュースを流していますが、あたかも正確な情報を流しているように振舞っています。そして、この日本において世論を作り上げようとします。その力がメディアを通して働いているわけです。これはイスラエルの問題だけではなく、あらゆる問題に当てはまります。アメリカの選挙報道もそうです。
もう一つは、空中の権威を持つ支配者の存在です。すなわち、悪魔です。悪魔は「この世の神」(Ⅱコリント 4:4)と言われます。私たちは、かつて、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした(3節)。神の怒りを受ける者、これが人間の現実です。神は罪を正しく裁かれます。
罪が分からないと、救いがよく分からないと思います。病にならないと健康のありがたさが分からないように、罪の悲惨さが自覚できないと、救いの必要性、自分には神の助けが必要であると気づけないでしょう。逆のことも言えるかもしれません。聖い栄光に満ちた神が分からないと、罪が分かりません。闇に慣れてしまうわけです。しかし、神の光が私たちの心を照らしてくれるなら、内面の闇と罪が露わにされます。人に罪を示すのは、聖霊の働きです。
ここで終わってしまうと希望がありませんが、次に、「しかし」(4節)が出てきます。神による解決策が提示されています。キリストと共にある人生です。どのような神でしょうか?あわれみ豊かな神です。その神が大きな愛を注いでくださっています。
人間のピンチは、神のチャンスです。救いは神から、上から、天から来ます。下から上では救いはありません。神の怒りを、天から下って人間として生まれてくださったイエスが十字架で引き受けてくださいました。イエス・キリストが私の罪の身代わりに死んでくださった。死んで終わりではない、よみがえられた、復活された。これが福音です。死んでいた者が、生きる者になるには、復活しかありません。
私たちは罪の中に死んでいました。しかし、神の大きな愛によって、また偉大な力によって、十字架と復活によって、私たちもよみがえり、生きた者にされています(6節)。エペソ1:20(神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて)、に書かれていますが、イエスに起こったことが私たちにも起こるということです。これが死からいのちへ移される、という神の偉大な力です。このことを私たちが更に知ることができますように、と祈っていきましょう。
この驚くべき救いは、ただ神の恵みによります(5節)。そして、救いは信仰によります(8節)。これは神の賜物です。このことが揺らぐと、救いが揺らぎ、人生が揺らぎます。救いは良い行いによりません。良い行いは、救いの結果であって、救いの条件ではありません。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです(10節)。私たちは新しく造られた者です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント 5:17)。
私たちは、かつては罪のゆえに死んでいましたが、今は、キリストにあって生かされ、よみがえらされ、天の所に座らせられています。主に心から感謝します!
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