前回は「私たちの敵である悪魔」と題して書きました。私たちはクリスチャンとして、悪魔が存在すること、現在、霊的戦いの真っただ中にあることを覚えなければいけません。私たちは戦うためにも召されています。その敵は人ではなく、悪霊であり、悪魔です。
人を滅ぼそうとしているのが悪魔です。まず大事なことは敵である悪魔が確かにいて、人間を滅ぼそうと忙しく働いているという事実を知ることです。この段階で悪魔の存在を信じないと、すでに悪魔の策略にかかって負けていることになります。その大前提を覚えた上で大事なことが二つあります。まず、悪魔をなめてはいけない、軽んじてはいけないということです。でも悪魔を必要以上に恐れる必要はないということです。
それに対して、人を救おうとしているのが神です。そして教会とクリスチャンは人を救おうとする神に協力するために選ばれています。教会とは何でしょうか。教会は「キリストの花嫁」です(エペソ5章)。夫であるイエス・キリストに対して、教会には妻の立場が与えられています。そして教会は「神の軍隊」でもあります(エペソ6章)。聖書を見ましょう。
14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、15 足には平和の福音の備えをはきなさい。16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。20 私は鎖につながれて、福音のための大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
(エペソ人への手紙 6:14-24)
執筆中のパウロ
私の神学校の先生がこのように言っていました。「教会(クリスチャン)とは、ウエディングドレスを着て、戦場に出て戦う者である。」これは、教会はキリストの花嫁であり、そして同時にキリストの兵士である、ということを表現したものです。印象深く残っています。
私たちは悪魔に勝利することができ、悪霊を追い出すことができます。主イエスは弟子たちに大宣教命令を与えられました。全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい(マルコの福音書16:15)。この命令には約束があります。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し(マルコ 16:17)。自分たちの力では悪魔に勝つことはできませんし、悪霊を追い出すこともできません。しかし、イエス・キリストによって勝利することができ、主イエスのお名前によって悪霊を追い出すことができます。なぜなら、イエスは悪魔をすでに打ち破られたからです。
神は私たちが勝利できるように神の武具を備えてくださっています(11節)。その武具を身に着けなければいけません。武具をもらっても身に着けなければ意味がありません。手ぶらで戦場にいることは危険です。そして一部分だけでなく、全ての武具を身に着ける方がより安全です。
使徒パウロは獄中にいましたが、ローマの兵士が常にパウロの見張りをしていたわけです。パウロはローマ兵を観察して「神の武具」を書く参考にしたと思います。14-17節に6つの武具が出てきます。一つ一つ見ていきましょう。
①真理の帯
帯をしめるのは武装する上での基礎になります。身を引き締めます。気持ちも引き締まりますよね。私は高校の授業で柔道をしましたが、帯を締めると気が引き締まりました。
イエス・キリストは真理です。主イエスは仰いました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書 14:6)それに対して悪魔は「偽りの父」です。嘘をつき、人を騙します。アダムとエバは悪魔に騙されました。悪魔は優れた詐欺師です。エバに言いました。「その実を食べてもあなたがたは決して死にません。」でも事実はどうでしたか?アダムとエバはまず霊的に死に、そして肉体に死が訪れました。悪魔は私たちに嘘を言い、そして滅ぼそうとしてきます。
ですから偽りに惑わされないために私たちは真理であるイエス・キリストを帯とします。真理は私たちに自由と解放をもたらします。主イエスは言われました。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします(ヨハネの福音書 8:32)。
②正義の胸当て
胸当ては、心臓を守ります。心を守ります。悪魔は告発してきます。私たちのセルフイメージに攻撃をしかけてきます。「おまえはダメだ」、「おまえは失敗者だ」、「おまえは祝福されない」と。
私たちはクリスチャンになっても歪んだアイデンティティを持つ危険性があります。劣等感、敗北感に自分の心を支配させてしまってはいけません。なぜなら、それは嘘だからです。それは違います。
確かに私たちは自分自身を見たらダメかもしれません。私たちは確かに自分たちの義を誇ることはできません。しかし、感謝なことに、イエス・キリストの十字架によって私たちは義と認められています。罪が赦されているのです。
人は行いによっては義と認められません。ただ主イエスを信じる信仰によって義とされます。 今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(ローマ人への手紙 8:1)。
これは約束です。悪魔は私たちの心を攻撃してきますが、イエス・キリストにある自己像(アイデンティティ)を持つことによって、自分の心を守ることが大切です。
③平和の福音の備えを足にはく
戦いにおいて機動力は大事になってきます。その時にくつが足に合っていないと大変です。履くのは平和の福音の備えです。悪魔は様々な敵意を作り出そうとしてきます。まず神と敵対することです。神を認めない。そして人との敵対。キリスト教会においても残念ながら分裂分派があります。
まず神との平和を持つことが大事です。それはイエス・キリストが与えて下さる平和です。私たちは仲保者イエス・キリストによってしか、神と平和を持つことはできません。それ以外に道はありません。そして主イエスは様々な敵意を打ち壊されました。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました(エペソ人への手紙 2:14-16)。 イエスを通して私たちは教会の中でも外でも一致することができると信じています。
「十字架上のキリスト」/ ジョット作
私たちには福音を伝える使命があります。それは平和の福音です。イエス・キリストを通して神との平和が与えられます、という良き知らせです。この福音を伝える備えをしておくことが大事です。
④信仰の大盾
悪魔は火の矢を放ってきます。疑い、恐れ、失望、不信仰などの矢を悪魔は放っています。その時に私たちは盾で防ぐことができます。信仰とは神への信頼です。
信仰の父であるアブラハムに神は言われました。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記 15:1)この時点で彼にあったのは、子孫が増えるという約束だけでした。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記12:3)。でも実際はどうだったかと言うと、アブラハムには子供は一人もいませんでした。それだけでなくアブラハムも妻サラも老齢になっていました。
しかし、アブラハムは神を信頼し、神が語られた約束のことばを信じ続けました。その結果、彼らにイサクが与えられたのです。その後、イサクにヤコブが与えられ、イスラエル民族が誕生しました。そして、アブラハムの子孫から救い主イエスが誕生したのです。確かに今、アブラハムの子孫としてお生まれになったイエス・キリストによって、全世界が祝福されています。神を信頼し続ける信仰が大切です。
⑤救いの兜
兜は頭を守るものです。私たちにとって最も大切なのは、救いです。神と和解し、神との平和が与えられている。罪が赦され、神の前に義とされている。永遠のいのちが与えられている。このことに確信を持つことが大切です。自分の罪がイエス・キリストの十字架の血によって洗い流され、聖められ、赦されていることを覚え、揺るがされることなく、救いの確信に堅く立ちます。その確信が自分を守ります。
⑥御霊の剣である神のことば
唯一の攻撃用の武具です。神の言葉によってしか悪魔に勝利することはできません。この世の知識と経験、道徳と宗教、富と権力では悪魔に勝つことはできません。
イ主エスが模範を示してくださっています。イエスもアダム・エバと同じように、悪魔の誘惑を受けました。イエスはどのように対処されたでしょうか。蓄えていた御言葉を悪魔に語ったのです。「聖書にはこう書いている」と。そして「引き下がれ、サタン」と悪魔を撃退しました。
悪魔と議論してはいけません。アダムとエバは悪魔と話し、「神は本当にそう言われたのですか」と神と神のことばを疑うように仕向けられ、ついには悪魔の誘惑に負けてしまいました。
中国ではリバイバルが起こっていますが、キリスト教が禁止されているので、聖書が足りません。彼らはどうしているかというと聖書を暗唱しています。凄いですね。悪魔の誘惑にあったらどうしたら良いのでしょうか。主イエスの模範に従いましょう。「聖書にはこのように書いてある。悪魔よ、引き下がれ」と宣言します。悪魔と議論してはいけません。議論するなら、彼は詐欺師なので、私たちは負けてしまうでしょう。そうではなく、剣である神の御言葉を用いて、悪魔を追い払うのです。
神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります(ヤコブの手紙4:7)。
それに続いて、18-20節で祈りについて書かれています。6つの武具に祈りを加えると7つになります。聖書で7は完全数です。聖書の数字には意味があります。7は完全数なので、祈りを加えて完全武装ということになると思います。ある時、弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。そこに主イエスが現れ、悪霊を追い出しその人を解放しました。その時に弟子たちはイエスに質問します。「どうして私たちには追い出せなかったのでしょうか」イエスはこのように答えられました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコの福音書 9:29)
パウロは「すべての聖徒のために祈りなさい」と勧めています。パウロは祈りの力を体験していました。私たちも祈りの力、神の力を体験したいと願っています。自分の力で祈ろうとするなら、祈ることができず、疲れてしまうかもしれません。ではどうしたらよいのでしょうか。御霊によって祈りなさい、とパウロは言います。御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます(ローマ人への手紙 8:26)。
神が備えてくださっている7つの武具を全て身に着けましょう。これらの神の武器を通して悪魔に勝利することができます。
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