新しい年、2022年がスタートしています。クリスチャン生活において大事なことはいろいろあると思いますが、その中でも特に大事になってくるのが「祈り」です。なぜなら、祈りを通して私たちは神とつながり、神の奇跡を体験し、聖霊が働かれるようになるからです。新約聖書に登場するバルテマイを取り上げます。
46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコの福音書10:46-52)
バルテマイという盲人の物乞いが、道ばたに座っていました(46節)。彼は目が見えなかったので、仕事をすることができなかったのでしょう。ですからお金を稼ぐことができず、物乞いをしなければいけない状況に追い込まれていました。彼は自分の将来に希望を持つことができなかったでしょう。人生に絶望していました。皆さんはどうでしょうか? この一年に希望を持っているでしょうか?
絶望していたバルテマイでしたが、「ナザレのイエスがお通りになる」という知らせを聞きました(47節)。その時、バルテマイの心に希望が湧いてきました。彼に信仰が与えられたのです。なぜなら、彼はイエスのことを少し知っていました。その当時超有名人であったイエスのうわさを聞いていました。このお方は、人々の病を癒している、盲人の目さえ開けている。
ヨハネの福音書9:1-7に書かれていますが、イエスは地面につばきをして、そのつばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗って言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい」 彼が行って洗うと、見えるようになったのです。バルテマイはこのようなニュースを聞いていたと思います。だから希望が沸き上がってきました。聖書の言葉を聞く時、私たちに希望が与えられ、信仰が与えられます。
私たちが信仰の人になりたいならば、聖書を読まなければなりません。なぜなら、信仰は聞くことから始まるからです。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ人への手紙10:17)と書かれています。
バルテマイはイエスのうわさを聞いて、信仰が与えられました。彼は、イエスが自分の前を通られることを知り、こんなチャンスは今しかないと思ったでしょう。このチャンスを逃したら、もう2度とイエス様が自分の前を通ることはないだろうと考えて、このチャンスを絶対に逃がすまいと堅く決心したことでしょう。シロアムの池で癒されたあの盲人と同じよう神のみわざが自分にもあらわされることを信じました。
そして、イエスが自分の前を通ろうとする時に、バルテマイは「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫びました。ダビデの子とは、メシヤ的称号です。すなわち、「救い主であるイエス様」と呼びました。私たちは神様、イエス様と呼びかけ、祈る時に大事なことは、神様はどのような方か、イエス様とはどのような方かということをはっきり知ることです。その助けになるのが神のお名前を知ることです。神はヤハウェ・ラファ(癒し主)です。ヤハウェ・ニシ(勝利の旗)、ヤハウェ・シャローム(平和の主)、ヤハウェ・イルエ(備え主)です。
聖書を読むことを通して私たちはイエス様がどのようなお方かを知ることができます。イエスは世の罪を取り除く神の小羊、光、アルファでオメガ(最初で最後)、全てを治めておられるお方です。そのイエスは、きのうきょうも、いつまでも、同じです(へブル13:8)。今も生きておられ、奇跡を起こすことができます。そのことを本当に信じることができるかどうかで祈りは決定的に違うものになっていきます。ただの宗教的な祈りで終わってしまうのか、それとも真に神に迫っていく祈りになるか。
人々はバルテマイは黙らせようとしました(48節)。でも彼は決してあきらめませんでした。彼はますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続けたのです。
すると、どうでしょうか? イエスは立ち止ったのです(49節)。あきらめないことがとても大切です。道ばたには、バルテマイの他にも様々な問題を抱えていた人たちがたくさんいたでしょう。しかし、イエスに叫び祈った人はわずかでした。祈らないということは、人生において最大の損失をしていることになります。なぜなら、信仰の祈りは、イエスの心を動かすからです。イエスの関心を引き、奇跡の力を神から引き出すことになるからです。
イエスは、彼をお呼びになりました(49節)。呼ばれた彼は、上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスの所へ行きました(50節)。この当時、盲人は盲人専用の服を着ていたと言われています。他の人から分かるように、施しをもらえるためにです。でも彼はその上着を脱ぎ捨てました。それは勇気のいることでした。もう施しがもらえなくなってしまうかもしれません。でも彼は上着を脱ぎ捨てる決断をしました。古い自分を脱ぎ捨て、新しい歩みをすることを決心したのです。
イエスはバルテマイに聞きました。「わたしに何をしてほしいのか」(51節)。彼は「目が見えるようになることです」と答えました。イエスは私たちにも何をして欲しいのかと聞いてくださっていいます。私たちは声に出して言うこと、告白することが大事です。イエスはバルテマイの願いを知っていました。でも彼自身に告白することを求めたのです。イエスは私たちの願いを知っておられますが、私たちの口からそれを聞きたいと思っています。ですから、祈りをもって、神に自分の願いを伝えることが大切になってきます。
イエスは彼に言われました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(52節) 並行箇所のルカ18:42では「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と書かれています。
癒し主であるイエスの宣言によって彼はすぐさま目が見えるようになりました(52節)。神のみわざを体験したバルテマイはイエスについて行きました。すなわち、イエスの弟子になったのです。私たちも今年、イエスの弟子として歩む一年、イエスについていく一年、霊的に成長・成熟する一年としていきましょう。
癒すのはイエスですが、バルテマイの信仰がイエスから癒しの力を引き出したのです。信仰の祈りが神に届くなら、祈りの答えが下ってきます。祈りによって聖霊が働き、神のみわざが起こります。2022年、主イエスは私たち一人一人に「わたしに何をしてほしいのか」と聞いてくださっています。私たちは口に出して祈り、告白しましょう。
祈りの答えを体験するということはクリスチャン生活において非常に大切です。祈りが答えられることを通して信仰が生きたものとなり、イエスにますますついていくことができるようになるからです。それがバルテマイが経験したことでした。彼は祈りの力、信仰の力を体験し、イエスの弟子として歩んでいったのです。この一年、祈りには力があることを体験できる年とさせていただきましょう。バルテマイのようにあきらめないで祈り続けましょう。イエスは約束されました。「求めなさい(求め続けなさい)。そうすれば与えられます。」(マタイの福音書7:7)
祈りの巨人として有名なのはアンドリュー・マーレーです。彼の本を通して、祈りについて多くの事を学ぶことができます。祈りを学ぶことを通して、更に力ある祈りを捧げていくことができるようになるでしょう。
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