エペソ人への手紙 2:1-10では、キリストなき人生とキリストと共にある人生が対比されていて、キリストなき人生には罪と死があり、キリストと共にある人生には救いといのちがあることが書かれています。救いは行いによらず、神の恵みと信仰によります。その続きは何が書いてあるでしょうか。それを見ていきます。
11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその基石です。21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです(エペソ人への手紙 2:11-22)。
執筆中のパウロ
使徒パウロはエペソ教会の人たちに11節で、「あなたがたは、以前は肉において異邦人でした」、12節で「そのころのあなたがたは、キリストから離れていました。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした」と書いています。
「異邦人」と言えば、1979年に久保田早紀が「異邦人」を歌って、一世を風靡しました。私はリアルタイムで聞いたわけではありませんが、何かの音楽番組で聞きました。これはシルクロードをテーマにしたもので、とてもエキゾチックな曲です。改めて聞きましたが、いい曲ですね。私はシルクロードに家族旅行で行ったことがありますが、その時の光景が浮かんでくるようでした。
久保田早紀は芸名で、本名は久米小百合さんです。私は彼女が音楽ゲストで来ていた集会に参加したことがありますが、彼女は歌手として芸能人として注目されていた時、自分はさまよっていたと言っていました。しかし、彼女はそのような中で、イエス様に出会い、救われ、芸能界を引退しました。彼女は、今はゴスペルシンガーとして活躍しています。いろいろな教会に招かれて行くと、「ぜひ異邦人を歌ってください」と言われるそうで、リクエストがあれば歌っていますと話していました。
久米 小百合(元 久保田 早紀)さん/音楽宣教師
私たちも以前は、キリストから離れ、希望がなく、神を信じていませんでした。神と敵対していたのです。ここで終わっていたら、本当に希望がなくなってしまいますが、エペソ教会の人たちに、そして私たちに、何が起こったのでしょうか? 大逆転の「しかし」(13節)が出てきます。
エペソ人への手紙 2:4でも出てきました。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに。罪の中に死んでいた私たちでしたが、しかし、憐れみ豊かな神は、私たちに大きな愛を注いで、御子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。イエスは、十字架で私たちの罪の身代わりに、罪の罰を受けてくださったのです。私たちは、救い主イエス・キリストを通して、神と和解することができ、「神との平和」を持つことができます。
以前は神から遠く離れていましたが、今は神に近い者とされています(13節)。何がそうしてくれたのでしょうか?「キリストの血によって」です。
十字架上のキリスト/ジョット作
神による救いのご計画はまずユダヤ人から始められました。そして、次に異邦人です。これが聖書の教えであり、順番です。
イスラエルは契約の民です。神との約束が与えられています。それは旧約聖書(古い契約)に書かれています。彼らはそのしるしとして割礼を受けていました。今、私たちは、イエス・キリストを通して、神と新しい契約を結んでいます。聖餐で「この杯は、わたしの血による新しい契約です」とイエスは言われました。旧約のしるしは割礼でしたが、新約のしるしは何でしょうか?洗礼です。
イスラエルに神を礼拝する神殿がありましたが、当時、異邦人は(異邦人の)庭までしか入ることができませんでした。神殿において神がご自身を現わし臨在される至聖所(最も奥にある場所)、聖所に入ることができたのはユダヤ人だけでした。ですから異邦人にとって、神は遠かったわけです。しかし、イエスが十字架に架かられた時に、神殿の幕が真っ二つに裂けました。至聖所には大祭司が一年に一度しか入ることができませんでしたが、その至聖所と聖所を隔てていた幕が裂けました。ですから、今は、イエス・キリストを信じる者は誰でも、神に近づくことができるようになったのです。
私たちは、大胆に祈りをもって、神に近づくことができます。19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。21 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(へブル人への手紙 10:19-22)。
私たちは神の子として、父なる神のみもとに近づくことができます(18節)。御霊によって「アバ、父」と親しく呼びかけることができるのです。これは凄いことです。パウロは、「思い出してください。」とこの個所を始めています(11節)。かつては希望がなかった。しかし、今は違う。今はイエス・キリストにあって希望があります。そのことそ思い出してください、と使徒パウロはエペソ教会の人たちに書いているわけです。
キリストこそ私たちの平和です(14節)。イエスは、二つのものを一つにします。ここでの二つのものとは、ユダヤ人と異邦人です。ご自身において(イエス・キリストにおいて)、「新しいひとりの人」に造り上げると書かれています(15節)。また「両者を一つのからだ」とすると書かれています(16節)。「新しいひとりの人」とは何のことでしょうか?これは教会のことです。
本来、イスラエルにとって異邦人は汚れた者でした。しかし、神は全ての民族を愛してくださり、異邦人にも祝福が及ぶようになったのです。ユダヤ民族の祖であるアブラハムが神に選ばれたのは、イスラエルが祝福されるだけでなく、他の民族も祝福されるためでした。神はアブラハムに仰いました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世記 12:3)。」救い主イエスは、アブラハムの子孫としてお生まれになりました。アブラハムになされた預言は成就しています。
私たち異邦人もイスラエルと共に神の祝福にあずかることができるようになりました。今、全世界にイエス・キリストの福音(良き知らせ)が宣べ伝えられています。多くの人々が神との平和を持つようになっています。かつては神と敵対し、罪の中に死んでいたのですが、イエス・キリストによって、神と和解し、神との平和が与えられ、希望に満ちた人生を送っています。
現在、残念ながら、多くのユダヤ人はイエスを拒絶しています。しかし、彼らの賜物と召命は変わることがありません(ローマ人への手紙 11:29)。イスラエルは変わらず、神の選びの民です。イスラエル人が福音に対して頑なになっているのは、異邦人の完成のなる時までです。このことはパウロがローマ人への手紙11章に書いています。今後、世界宣教が更に前進していく中で、異邦人の数が満ちて、神が良しとされたなら、イスラエルは皆救われます。現在、イスラエルでイエスを信じているメシアニックジューは約1万人くらいと言われています。異邦人とイスラエルが一つのからだとして完成する時がやってきます。これは奥義です。1948年にイスラエル国家が再建されましたが、今後イスラエルに起こるのは、霊的な覚醒です。彼らは救い主イエスに出会います。
残念ながら、世界的な規模で反ユダヤ主義が横行しています。第2次世界大戦でホロコーストが起こり、600万人のユダヤ人がナチスドイツによって虐殺されました。そのような悲劇が起こったにも関わらず、また反ユダヤの世論になっているのが、現代です。日本の主要メディアもそうです。偏見と差別で満ちていて、事実に基づく公平な報道をしていません。現代において、それを見極める洞察力が大事になってきています。テレビや新聞の報道を鵜呑みにしてはいけないということです。
「新しいひとりの人」(One New Man)が造り上げられる。これは奥義です。今、世界はここに向かっています。では「ひとつのからだ」とは何でしょうか。これは「キリストのからだ」である教会のことです。
教会とは何でしょうか?教会とは建物ではありません。「エクレシア」です。神によって、この世から召し出された、呼び出された者たちの集まりです。今日の個所で見ることができる教会の姿は3つあると思います。
①キリストのからだ(16節)
かしらはキリストです。私たちはからだの一部分として、それぞれに役割があります。かしらであるイエスの指令に従ってからだを動かします。手の役割、足の役割、様々です。からだがバラバラに動くと、からだはうまく動きませんが、調和するなら、それぞれが役割を果たしていくなら、一つのからだとして、神の栄光を現わすことができます。
②神の家族(19節)
イエス・キリストを信じて救われた私たちは神の子とされています。ですから、血のつながりはないかもしれませんが、お互いが兄弟姉妹となります。この関係性は永遠に続くものです。
③聖なる宮(21節、神の宮)。
私たちは聖霊の宮です。聖霊が内住(私たちの内側に住んでくださいます)されます。二人または三人がイエス・キリストのお名前によって集まるところには、その集まりの中に主イエスがいてくださいます。
以前は、私たちは神から離れている者でした。神と敵対していました。しかし、あわれみ深い神が、平和の君である御子イエスをこの世に遣わしてくださいました。キリストこそ私たちの平和です。最大の和解が必要なのは、まず神との間です。神との平和が与えられていることに感謝を捧げましょう。
それだけではありません。私たちは和解の使者とされています。18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント 5:18-21)
いろいろな和解があると思いますが、これからの世界において、神との和解と共にユダヤ人との和解がとても大切になってきます。そして「新しいひとりの人」が造り上げられていきます。
スポンサーリンク