創世記1章で「良い」と言われた神が、「人が、ひとりでいるのは良くない」と仰せられました。良くないとは悪いという意味ではありません。それはまだ完成していないということです。ちょうど魚のいない海、動物のいない陸のようです。助け手のいない男も未完成でした。そこで神は助け手として、女を造りました。聖書には以下のように記されています。
18 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」19 神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。21 神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨を一つ取り、そのところの肉をふさがれた。22 神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2章18~23節)
アダムは全ての生き物に名前を付けました(19,20節)。彼が付けた名はみな、それがその名となりました。今ほど動物の数はいなかったので、膨大な時間はかからなかったのではないでしょうか。種類別に名前をつけるだけだったと思います。動物たちに名前をつける作業と女の創造は全て天地創造6日目の出来事です。名前をつけながら、他の動物にはパートナーがいるのに、自分にはパートナーがいなかったので、アダムは孤独を感じたかもしれません。
名前をつけるという行為は、それが自分のものであるということです。アダムは、海の魚、空の鳥、家畜、地のもの全てを支配することを神から委ねられていました。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」(創世記1章26節)
イエスの父であるヨセフがイエスに名前を付けたということはそういうことでした。そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた(マタイの福音書1章25節)。イエスは母マリヤの胎に聖霊によってみごもったので、ヨセフはイエスとは血縁関係にありませんでしたが、名前を付けることにより、イエスを自分の子として迎えました。その結果、イエスはヨセフの先祖であるダビデの子孫となり、ダビデ王の系図に入ることになったのです。旧約聖書の預言通りでした。
名は体を表すと言いますが、名前はその人の中身や性質を的確に表すことが多いです。イエスは「主は救い」という意味です。ですからイエスはまさに救い主なのです。アダムは自分が名前を付けた生き物を見ましたが、自分にふさわしい助け手が見つかりませんでした(20節)。結婚にはある程度の共通性が必要であるということでしょう。
神はアダムが自分で助け手を探さなくてよいように、アダムに深い眠りをくだされました(21節)。眠ることを通して、すなわち結婚の心配を神にゆだね明け渡すことによって、神のタイミングですなわち最善の時に、別の場所であなたのために造り上げている人を、神はあなたのところに連れて来てくださるでしょう(22節)。結婚の夢が死んだと思うことがあるかもしれません。しかし、神にゆだね明け渡し、十字架に生き、結婚を墓に葬る時、復活を体験することができるでしょう。結婚の夢が叶うと信じます。女はヘブル語で「イシャ―」、男は「イシュ」です。ですから「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから(23節)」という文章はヘブル語のことば遊びにもなっています。
結婚は男と女がするように神が定めました。同性結婚は神のご計画の中にはありませんが、生涯独身で過ごすということはあり得ます。使徒パウロがそうでした。一人でいる独身は決して不完全であるということではありません。独身は、神にだけ集中して、神にだけ仕えるための、神からの賜物です。独身に召されている確信があるならば、結婚をする必要はありません。結婚は素晴らしい神の祝福ですが、独身も素晴らしい神からの賜物です。
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