男と女の結婚を定めたのは神です。以下に書かれている通りです。
24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった。(創世記2章24,25節)
使徒パウロは創世記2章24節のことばを引用して「奥義」を書き記しました。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ人への手紙5章31,32節)
人類最初の人間であるアダム、第一のアダムは神によって深く眠らされ、あばら骨を取られ、妻が創造されました(参考 https://canaan.blog/marriage-god-defined/)。第二のアダムであるイエス・キリストは、眠ったのではなく十字架で殺され、そのわき腹をやりで刺され、そこから流れ出た血と水でその花嫁なる「教会」が造られました。これは奥義であるとパウロは書いています。人類に罪が入るのが創世記3章です。その前の創世記2章の段階で、すでに教会は神のご計画の中心にあったのです。驚くべきことです。その素晴らしい描写がヨハネの黙示録に描かれています。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、とかきなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。(黙示録19章7-9節) これは小羊の婚宴、すなわち「キリストと教会」の結婚式です。花婿はイエス・キリスト、教会はキリストの花嫁です。今、教会(キリスト者)は、イエスとの結婚式に備えているわけです。
エペソ人への手紙に夫婦関係における聖書的な原則が記されています。妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのおとにおいて、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。(エペソ人への手紙5章22-33節)
アダムとエバは二人とも裸でしたが、互いに恥ずかしいと思いませんでした(25節)。これが理想的な夫婦の関係であると言えるのではないでしょうか。お互いに隠すことがなく、何でも話し合える関係であるということです。
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