イエスはルカの福音書15章で3つのたとえ話(物語)を話しています。その中で最後の「放蕩息子のたとえ」はイエスのたとえ話の中で最も有名なものといってよいでしょう。でも11節に「ある人に息子が二人いた」と書かれているように、これは息子というよりは、実は父親に焦点が当たっていると見ることができると思います。今日は父の日です。ルカ15章で父なる神の愛を見ることができます。聖書の全文を載せます。
1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。8 また、女の人が銀貨を十枚持っていても、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。9 見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。32 だがおまえの弟は死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」(ルカの福音書15章1-32節)
『放蕩息子の帰還』 レンブラント・ファン・レイン/1666-68年 エルミタージュ美術館
そもそもなぜイエスがこれらの話をされたのかということですが、それは1、2節を見ると分かります。取税人と罪人がイエス様の話を聞こうとして、近寄って来ました(1節)。するとパリサイ人と律法学者たちは、つぶやいてこう言いました。「このイエスという人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする。」 とんでもないことだ、というニュアンスが込められています。
そこでイエスは彼らに(パリサイ人、律法学者たち)にこのようなたとえを話された(3節)、と書かれているように、3つのたとえ話をされました。ルカ15章はなくしたものを見つけて共に喜ぶことが描かれている三部作になっています。失われた羊、なくしてしまった銀貨、放蕩息子。3つの物語には共通のテーマがあります。
1.貴重なものが行方不明になってしまったこと。 2.行方不明になっていたものは全力を傾けて捜すだけの価値があったということ。 3.この捜索は結果として見つけることができ、喜びで終わるということ。
まずは失われた羊のたとえです。一匹の羊ですが羊飼いにとってはとても大切なものでした。名前をつけていたかもしれません。羊は羊飼いの暮らしの重要な部分を占めています。ですから見つかるまで捜し歩くでしょう。そして見つけたら、大喜びでその羊をかついで帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集めて、「いなくなった羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うでしょう(6節)。あなたがたに言いますが、それと同じように、羊飼いが迷子になってしまった羊を見つけて喜ぶように、一人の罪人が(今、私の話を聞こうとして近寄って来ているうちの一人)が悔い改めるなら、喜びが天にあります(7節)。私は喜びますが、なぜあなたがたは、一緒に喜ばないのですか? とパリサイ人、律法学者たちに問いかけているわけです。
そしてイエスは続けて次の話をします(8-10節)。女の人が銀貨を一枚なくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜すでしょう。なくした銀貨は、持ち主の女性にとっては生活がかかっているほど大事なものでした。私たちも一万円札を家でなくしたら、念入りに捜すことでしょう。女性は銀貨を見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、「なくした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください」と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、この女性が銀貨を見つけたように、一人の罪人が(今、私の話を聞こうとして集まって来ている人たちのうちの一人)が悔い改めるなら、神のみ使いたち(天使たち)に喜びが沸き起こります(10節)。天使が喜ぶのに、なぜあなたがたは喜ばないで、つぶやいているのですか、とイエスはパリサイ人と律法学者たちに問いかけています。
ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」(1772年)
3つ目のたとえ話の最後が放蕩息子の話です。お父さんは息子が帰って来たので、走り寄り、喜んで迎えて、祝宴を始めました(24節)。ところが兄息子は、この弟(放蕩息子)を迎え入れたお父さんに対して怒りました(28節)。しかし、お父さんは彼に言いました。「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
なぜあなたがたは、兄息子のように弟息子(今、私の話を聞こうとして近寄り集まって来ている罪人たち)が悔い改めて、父なる神の元に帰ってきたのに、一緒に喜ぼうとしないのですか?とイエスは3度、パリサイ人と律法学者たちに問いかけています。
この3つのたとえ話は直接的には、パリサイ人と律法学者たちに語られたものです。「共に喜びなさい」というのが、この物語の中心的なテーマであると思います。ローマ人への手紙12章15節には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と書かれています。
一匹の羊がいなくなってしまった。一枚の銀貨がなくなってしまった。一人の息子が父の元を去ってしまった。まさに人間の姿と言えます。本来いるべき場所、神の元から離れてしまいました。この行方不明になってしまったものは、全力を傾けて捜す価値がありました。羊飼いは迷子になってしまった一匹の羊を一生懸命に捜しました。女性はなくしてしまった一枚の銀貨を念入りに捜しました。お父さんは息子が帰って来るのをずっと待っていました。ここに父なる神の愛を見ます。すなわち、一人の人を大切に扱うということです。神にとって私たち人間は群衆ではありません。尊い一人の人です。高価で貴い存在として神は私たち一人ひとりを見てくださっています。正しい神観を持つことが大切です。
人間の父親は不完全なので、その父を基準として父なる神を見ると間違った神観を持ってしまうことになります。意外とこのケースは多いと思います。自分の父親への評価が低いと、父なる神への評価も自然と低くなってしまうという弊害です。宗教改革者のマルチン・ルターは、長い間ある祈りのフレーズを口に出して祈れなかったと告白しています。それは「天の父よ」という祈りです。神に対して「天のお父さん」と呼びかけることができなかったそうです。それは、彼の父親が非常に厳しい人であったからです。ですから、もっと厳しい人が天にいるかと思うと、親しみを込めて「天のお父さん」とは呼べなかったというわけです。しかし、人間の父親は不完全ですが、天の父なる神は完全なお方です。
弟息子は放蕩しました。お金を使い果たし、貧しさを味わい、飢え死にしそうになり、どん底に落ちた時に、我に返りました。人生に絶望した時に、父親の元へ帰る決意をします。久しぶりに父と会うので緊張したことでしょう。拒絶されるのを恐れたことでしょう。しかし、予期しないことが起こりました。まだ家までは遠かったに、父親は彼を見つけ、可哀想に思い、走り寄って彼を抱き、口づけしたのです(20節)。私たちが信じる神は、走り寄る神です。家まで遠かったのに、息子に気づいたということは、いつも窓から見ていた、または家の外に出て遠くを見ていたということです。いつも気にしていなければ、息子が遠くにいる時に見つけることはできなかったはずです。
放蕩の限りを尽くした息子でしたが、彼の帰還を心の底から喜んだ父はしもべたちに言います。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(22-24節)
神の前に失われている状態ほどひどいものはありません。それは死よりも深刻です。でも神に見い出されるなら、天に大きな喜びが沸き起こります(7,10節)。この地上でも喜びがありますが、天でも喜びの祝宴が開かれます。私たちには帰って行くことのできる愛と憐れみに満ちた父なる神がいます。イエスを信じるなら神の子とされ、父なる神に「天のお父さん」と親しく祈り呼びかけることができます。聖書は言います。この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名(イエス・キリストの名)を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった(ヨハネの福音書1章12節)。父なる神は私たちのことを心配してくれています。私たちが人生で傷つくならば、可哀想に思ってくれます。可哀想に思うだけでなく、私たちの方へ走り寄ってくださるのが私たちが信じる神です。ここには人格的な生き生きとした関わりがあります。神は驚くべき愛で私たちを包み込んでくださいます。ここに希望があり、愛があり、祝福があります。
ジェームス・ティソ「放蕩息子の帰還」/ (1886-94年) ブルックリン美術館
ところが兄息子はこの祝宴に加わりませんでした。これがパリサイ人、律法学者たちのとった立場でした。このたとえ話は32節で終わっていますが、私は個人的にこのたとえ話は本当にここで完結しているのか、という疑問が湧いてきます。私は小説や映画で物語を読んだり見る時にそのように感じることがあります。例えば2時間の映画で、ある男女が様々な困難を乗り越えて結婚します。そして映画がハッピーエンドで終わります。私は思います。この後、二人はどうなったのだろうか。滅亡しそうになった地球が何とかヒーローたちによって救われます。でもその後、世界はどうなったのだろうか。
ここで父親は兄息子に向かってこう言います。「一緒に来なさい。一緒に食事をしよう。一緒に歌い踊ろう。今日は祝宴だ」 小説の書き方、映画のつくり方で言えば、そのお兄さんがお父さんに説得されて、渋々ながらも父親について行って、弟と握手をする、もしくはハグをする。そしてそれを見ていたしもべたちが拍手をする。そういう場面ではじめてこの話は終わるというか、完結するのではないかと、私は思うわけです。
しかし、イエスのたとえ話は32節で終わります。イエスはここで話をあえて終えておられます。このたとえ話は、第一義的にはパリサイ人たちに、イエスが語ったものでした。彼らへの招きとして話したのです。だから、この物語の結末をつけるべき人は、パリサイ人であったと言えるでしょう。
彼らはどうしたでしょうか。彼らは罪人が悔い改めるのをイエスと一緒に喜びませんでした。パリサイ人たちは、イエスの招きを断ったのです。心を刺されて悔い改めたのではなく、かえって心を頑なにして、ついにはイエスを十字架にかけて殺してしまったわけです。パリサイ人たちは特別、鈍感で冷酷な人たちだったのでしょうか。このことを私たちはよく考えてみる必要があるように思います。
このたとえ話に出てくるお兄さんは、神の愛が分からなったのでしょうか。私は逆だと思います。このお兄さんは、お父さんの愛がよく分かっていたのです。父の愛は途方もないほどのものだと。自分の常識に逆らうほど、限りがないものであるということを知っていました。だから腹を立てたのではないでしょうか。
お兄さんが仕事場から帰って来ます。労働から帰ってきた時、お兄さんは弟が着ていたような父が与えた立派な服を着ていませんでした。お兄さんの服は汚れていたのです。せめて祝宴をする時に、お兄さんが帰ってくるのを待っていても良かったのではないか、と思ってしまいます。それか仕事をしているお兄さんの所へしもべをやって、「お父さんからの伝言です。おまえの弟が帰って来たから、仕事を切り上げて早く帰って来なさい。一緒に食事をしよう」と言ってもよかったのではないか。でも父はそのようなことを一切しませんでした。ただ弟を無条件に迎え入れ、完全に赦しました。兄がそれを喜ぶのは非常に難しかったでしょう。弟の分け前の分とはいえ、家の財産を湯水のように無駄に使い、「ただいま」と帰ってきた人を無条件に受け入れることができるでしょうか。「お父さんはやっぱり素晴らしい。よく弟を無条件に赦し、寛大さを示してくださいました。お父さんの愛は最高だよ。ハレルヤ」と私たちは言えるでしょうか。おそらく普通の人は言えないと思います。これがキリスト教の一つのつまずきだと私は思っています。要するに、父なる神の愛は、人知をはるかに超えた驚くほどのものであるということです。
なぜ弟は迎え入れられたのでしょうか。それは弟が父の元へ帰ってきたからです。ただそれだけです。パリサイ人たちは、そのようには罪人が悔い改めるだけで神に赦されるのを、受け入れることができませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちもパリサイ人たちのように、放蕩息子のお兄さんのようになる可能性があるのではないでしょうか。祝うのは当然ではないか、と父親は言っていますが、私たちは他の人が回復したのを祝福されたのを共に喜ぶことができるでしょうか。
この父親には2人の息子がいましたが、二人とも失われていました。弟は誰もが分かる形で、失われていました。一方、兄は表面的には父親に対して忠実そうに見えてはいましたが、その心は遠く離れていました。お父さんは弟息子と兄息子の両方を愛していました。父なる神がどの人をも愛しておられるようにです。
弟が帰って来て、祝宴が催されている時に、お兄さんは怒って、家に入ろうともしませんでした(28節)。私は長年の間、お父さんに仕えてきたと言っていますが(19節)、ここでのギリシャ語は「ドゥーレウオー」という言葉が使われていて、「奴隷として仕える」という意味になるようです。弟息子の方は欲望の奴隷となっていたのに比べて、兄息子もまた奴隷であったと言えるでしょう。父と共に生活していましたが、父と一緒に仕事をするのが喜びであったのではなく、しなければならないからやってきた、いわば律法の奴隷のように見えます。もし私たちが、愛が動機ではなく、義務感によって神に仕えているなら、このお兄さんのようになってしまいます。
お兄さんはお父さんへの寂しさで満ちていました。自分が父の子であることを忘れ、ただしもべのように過ぎないと感じていました。弟息子は、子である資格はもやはありません、しもべにしてくださいと言って、父の元へ帰りましたが、子であることに変わりがないこと、父の驚くべき愛を体験しました。お兄さんも「私は父の子である。私は神の子である」というアイデンティティを喪失していました。私たちは自分が神の子供であるというアイデンティティを決して忘れないようにしましょう。
お兄さんはお父さんの持ち物が自分のものであることを忘れていました(31節)。彼は父をケチな老人のように考えていたのでしょう。私たちが信じる神はどんなものでも持っています。私たちは相続財産を受け取る特権を得ています。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(ガラテヤ人への手紙3章29節)
なぜなら私たちは神の子供だからです。父なる神は私たちにも驚くべき言葉を語っています。「私のものは、全部おまえのものだ。」(31節)お兄さんも喜びの祝宴に加わることが父の願いでした。共に喜ぶことが神の御心です。家族が一つになることを父は願いました。神は教会共同体が一つになることを願っておられます。
イエスはパリサイ人たちに罪人が悔い改めたのを見て、失われていた人々が神に見い出されて、なぜあなたがたは一緒に喜ばないのかと3つのたとえを用いて話し、彼らに問いかけています。しかし、これは私たちに対する問いかけでもあると思います。「喜ぶ者と一緒に喜びなさい」と聖書は語っています。自分に対する神の愛に感謝しつつ、また他の兄弟姉妹になされた神の愛と神のみわざを賛美しましょう。喜ぶ者と一緒に喜ぶ者でありたいと願います。
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