アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたので、目が開かれ、自分たちが裸であることを知りました。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰の覆いを作りました。聖書にはこのように書かれています。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3章7節)
これは人間的な努力によって、自分自身の義を立てようとする罪人の姿です。人は人間的行為(人間の努力)で神の前に立つことはできません。この二人の様子は、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった(創世記2:25)という以前の状態とは全く違います。
『アダムとイヴ』(プラド美術館)/ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 1550年頃
神はこの後、二人のために皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった(創世記3:21)。皮の衣を作るには、動物の犠牲が必要です。動物の血が流されました。ここに、人間が神に近づく道としてのいけにえ、そしてイエス・キリストの十字架と血が暗示されています。私たちの人間的な努力では神に近づくことも受け入れられることもできません。しかし、イエスの十字架と血を通して神に近づくことができ、神に受け入れられることができるのです。
アダムとエバは悪魔の誘惑に負けてしまいました。この罪によって、全人類に罪と死が入ってきてしまったのです。そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ー それというのも全人類が罪を犯したからです(ローマ人への手紙5:12)。これは私たちと関係があります。私たちはアダムの子孫として罪を持って生まれ(原罪)、死ぬ存在であり、神の裁きを受ける者になってしまったのです。
しかし、神は私たち人間を救うためにイエスをこの地上に遣わしてくださいました。それがクリスマスです。神であるイエス・キリストが人間の赤ちゃんとして生まれてくださったのです(受肉)。ことば(イエス・キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネの福音書1:14)。
神は私たち人類を愛しておられます。神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3:16,17)
ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとり(アダム)の違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。もしひとり(アダム)の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうどひとり(アダム)の違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとり(イエス・キリスト)の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(イエス・キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです。律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ人への手紙5:15-21)
アダムとエバは人間的な努力によって、いちじくの葉によって恥を隠そうとしましたが、葉っぱは強風などによって簡単に吹き飛ばされてしまうでしょう。人間的な努力には限界があります。だから神はアダムとエバのために皮の衣を用意されたのです。これはただ神の恵みによります。
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