イエスの公生涯をイエスの弟子であるヨハネは福音書に記しているわけですが、ここの個所は最初の日の出来事です。1日目が19-28節、2日目が29-34節。
19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません」と言明した。21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」24 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。25 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。30 私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。31 私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」(ヨハネの福音書1:19-31)
19節にヨハネの証言はこうである、と書かれていますが、このヨハネはこの福音書を書いたイエスの弟子である使徒ヨハネではなく、バプテスマのヨハネのことです。彼は8節にも書かれているように、まず自分が光ではないことを証言し、次に光であるイエス・キリストについて証言します。
人々はヨハネに「あなたはどなたですか」(19節)と聞きます。最初、彼は消極的な答えをします。「私はキリストではありません」(20節) 異端の特徴は、教祖が「私がキリストです」と言うことです。また聞かれます。「あなたはだれですか」(22節)ヨハネは今度は積極的な答えをします。「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」(23節)
バプテスマのヨハネはイエスが来られる道を備えるという使命がありましたが、現代に生きるクリスチャンにも使命があります。それは、再臨されるイエスの道を備えることです。「あなたは誰ですか」と私たちも聞かれることがあるでしょう。私たちは大胆に答えましょう。「私はイエス・キリストを自分の救い主として信じている者です」と。
彼らの質問が第2段階に入ります。洗礼を授けているヨハネの権威と理由を聞きます。「なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか」(25節)バプテスマのヨハネは焦点を自分からずらして、イエスへと向けます。「私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(27節)私たちも話の焦点を自分からイエス様へと移していくことが大切になっていきます。
次の日になります。いよいよ光であるイエス・キリストについての証言に入ります。イエス・キリストはどのようなお方でしょうか。
イエス・キリストは世の罪を取り除く神の小羊です。(29節)今日は「小羊」というキーワードをテーマにします。バプテスマのヨハネはイエスを見て、言いました。「世の罪を取り除く神の小羊」
『 ヘントの祭壇画』神秘の子羊と礼拝者たち /ヤン・ファン・エイク作/ 1432年
ヨハネの使命は、イエス・キリストの道を備えることであり、イエス・キリストを明らかにすることでした。31節でヨハネは言っています。ヨハネの人生の目的ははっきりとしていました。イエス・キリストをイスラエルの人々に紹介することであり、イエス・キリストを明らかにするためでした。これがクリスチャンの生きる目的でもあるべきだと思います。
「見よ。」(29節) ヨハネは「イエス・キリストを見なさい。イエス・キリストに焦点を合わせなさい」と言いました。クリスチャン生活の基本は、イエス・キリストを見ることです。イエスを肉の目で見ることはできませんが、霊の目で、信仰の目を持って見ることができます。信仰生活の難しさはイエスが実際には見えないことにあると言えるかもしれません。私たちはイエスから目を離してしまうことがあります。自分自身に、自分が置かれている状況や環境に、周りの人々に、この世の流れに焦点を合わせやすいのです。へブル人への手紙12:2に、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。と書かれています。
教会に来る、礼拝に来る一つの目的は、一週間のはじめに焦点を合わせ直すためです。人生の焦点をもう一度確認するためです。「この方を見なさい」と他の人に言うためには、私たちがイエスをよく知っていなければ他の人に紹介することはできません。
「あの人を見なさい。あの方が世の罪を取り除く、あなたの罪を取り除く神の小羊です」とヨハネは言いました。この宣言は、希望に満ちた言葉です。でも旧約聖書を知らなければこの言葉の素晴らしさを理解することは難しいと思います。
「小羊」は聖書の教えを理解する鍵の言葉の一つです。「小羊」がキリスト教の神なのでしょうか。もちろん違います。しかし、大事なことは、イエス・キリストは「神の小羊」として十字架に架かったということです。
『 ヘントの祭壇画』神秘の子羊 / ヤン・ファン・エイク作/ 1432年
聖書の中での重要な場面を何箇所か見たいと思います。まず創世記3章です。最初の人間であるアダムとエバが神に創造されました。しかし、彼らは神に反抗し、罪を犯しました。3:7に「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」と書かれています。彼らは自分たちの恥を隠しました。それは十分ではありませんでした。強い風が吹いてきたら、腰の葉っぱは飛んでいってしまったことでしょう(笑)。
3:21に「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」と書かれています。神は人間が自分たちで用意したいちじくの葉の代わりに動物の皮で恥で覆ってくださいました。皮の衣が出てくるので、動物が犠牲になっているということです。
アダムとエバは今まで動物が死んだ場面を一度も見たことがありませんでした。血を見るということもありませんでした。しかし、神が彼らを裁く代わりにアダムとエバの身代わりを用意され、その動物(おそらく羊)の血が流れ、彼らの目の前で死にました。それを見て、彼らはショックを受けたのは間違いないでしょう。私がパプアニューギニアに宣教旅行で初めて行った時に、彼らは私を歓迎しもてなしてくれるために豚と鶏を用意してくれましたが、私の目の前でそれらを殺したので、私はショックを受けました。
アダムとエバは、これはひどいと感じたことでしょう。でもこの羊の状態が自分たちの現実だ、ということに気づきました。この動物(羊)のおかげで、この血と死のおかげで、私たちの命は助かった、ということが分かったのです。
出エジプトの時もそうでした。イスラエルの民は、エジプトにおいて430年間奴隷でした。神がモーセに言いました。「羊をほふり、家の扉にその羊の血を塗りなさい。そうすれば、神の裁きは通り過ぎます。過ぎ越されます。しかし、血を塗らなければ裁きが下り、家の長男が死ぬことになります。」
イスラエルの家ではこのような会話がなされたでしょう。お父さんが羊を取ってきて、ほふろうとしました。それを見ていた長男が叫んだことでしょう。「お父さん、可哀想だよ。やめて、何で殺すの?何か悪いことをしたの?」 でもお父さんは答えます。「仕方がないんだ。羊を殺さなければ、おまえが死ぬことになるんだよ。この羊はおまえの身代わりなんだ。羊かおまえのどちらかが殺されなければならない。私は羊を選ぶよ。おまえが生きるために。」 この長男は自分の身代わりの羊の死体を目の前で見ました。
イスラエル人はこの神の命令を守り助かりましたが、エジプト人は守らなかったので、死の裁きがくだりました。この大いなる出来事を通して、イスラエルは奴隷状態から解放され、救い出され、エジプトを脱出することができました。
「見よ。神の小羊」とヨハネが言った時に、旧約聖書を知っていた人々は理解しました。この人は身代わりに殺され、血を流し、死なれることになるということを。イエス・キリストは何のためにこの世界に来られたのでしょうか。なぜ生まれたのでしょうか。一番の目的は、私たちの罪の身代わりに十字架で死ぬためです。私たちの罪を取り除くためです。私たちが自分たちの罪のゆえに罰を受けずにすむため、神に裁かれないためです。これがイエスが十字架の上で私たちのために成し遂げってくださったことです。
羊が罪を負い、人間が赦される。羊が死に、人間にいのちが与えられる。立場が交換されます。イエス・キリストが私たちの罪を負い、私たちの立場を取り、有罪とされ、私たちはイエス・キリストの立場を取る。すなわち、無罪とされる。これが福音です。Ⅱコリント5:21にこのように書かれています。神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方(イエス・キリスト)にあって、神の義となるためです。
アマゾン川には、ピラニアという人をも食べてしまう魚が生息しています。恐ろしいです。ものすごい鋭い歯を持っています。ピラニアは川の中に何かが現れると、群れをなして襲い掛かり、骨だけを残してすべてを食い尽くしてしまうそうです。歯はカミソリのように鋭く、あごの力がとても強いので一瞬のうちに引きちぎって食い尽くしてしまいます。ですから、動物でも人間でもピラニアがいる川に落ちてしまったら、生き残るのは難しいのです。
ピラニアがいる地域で羊を飼っている羊飼いたちにとって、最も大変なのは羊を連れて川を渡ることです。ピラニアがいる川の近くで羊を飼っている人たちは、長い間の経験を通して川を渡る秘訣を心得ています。家畜を連れて川を渡らなければならない時は、まず一頭の羊を犠牲のいけにえとして川に投げ入れます。そして、ピラニアが群れをなしてそれを食い尽くしている間に、他の場所から何十頭もの家畜を集めて川を渡らせるそうです。
イエス・キリストは、犠牲のいけにえとなられ、神の小羊となられ、罪の呪いを十字架上で担われました。イエス・キリストとは誰ですか。どのようなお方ですか。イエス・キリストは、世の罪を取り除く神の小羊です。私たちの罪を取り除いてくださるお方です。
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