「奇跡を信じる」という時に3種類の信仰のあり方があると思います。まずは、私は奇跡を全く信じませんという信仰のあり方、これは信仰というよりは不信仰と言えます。次に私は聖書に書かれている奇跡、すなわち昔起こった奇跡を信じます、という信仰のあり方。もう一つは聖書に書かれている奇跡はもちろんですが、今も神が奇跡を行なうことができると信じますという信仰です。
今日見る箇所はイエスが水をぶどう酒に変える「奇跡」を行なった場面です。
1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係がいがあるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで、10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。 (ヨハネの福音書 2:1-11)
今日は、奇跡に焦点を当てたいと思います。日本において、オウム真理教のことがあって特にそうなったと私は思っていますが、奇跡や神秘的なものが怪しいと感じられるようになっている傾向にあるように感じています。それで教会も私たちは新興宗教とは違います、もっと高尚なことを信じています、というわけで、キリスト教信仰から奇跡を排除してしまっている教会が増えてきているのが現状です。しかし、キリスト教と聖書から奇跡を省いてしまったら、はっきり言ってほとんど何も残りません。残るのは、キリスト教倫理と道徳ぐらいでしょう。
キリスト教が他の宗教を批判する時に絶対にしてはいけない批判の方法は、その宗教の神秘性自体を批判することです。この世ではそれでいいです。しかし、教会はやってはダメです。それはキリスト教と教会を危険な立場に置くことになります。教会は本来、神秘的なことを信じている群れです。キリストの復活を信じています。キリストの再臨を信じています。これが神秘でなくて何でしょうか。間違った批判の仕方をすると、後に教会がその神秘性自体を批判されることになるでしょう。
カナの婚礼教会(イスラエル)
さて、「私は奇跡を信じる」と言ったのは、1960年代、1970年代に大活躍したアメリカ人の女性伝道者キャサリン・クールマンです。彼女が言った言葉を今日のタイトルにしました。
キャサリン・クールマンは、アメリカにおいて聖霊運動、奇跡と癒しの働きを推し進めることに非常に貢献しました。彼女は神が、イエス・キリストが、今日も奇跡を起こす方であることを特にアメリカにおいて、目に見える形で証明しました。彼女の働きを通して驚くべき癒しのみわざが現れました。
イエスはしるしを通して、ご自身が神の御子であることを証明しました。ご自分の栄光を現わされました。弟子たちはイエスのしるしを実際に見て信じました。キャサリン・クールマンはしるしを通して神が今も生きておられることをこの世に示したのです。
ガリラヤのカナはナザレから比較的近い場所にあります。数年前にイスラエル旅行へ行きましたが、ガリラヤからエルサレムに向かう途中で、カナとナザレへ行きました。イエスはある結婚式で特別な状況に置かれ、母から頼まれたので、水をぶどう酒に変える奇跡を行ないました。もちろん私たちはこの奇跡が実際に起こったと信じます。でも「私たちは奇跡を信じる」と言って、聖餐式にぶどうジュースを用意しないで、水を入れておくということにはなりません。
あまり極端に走らないようにしましょう。両極端の行き過ぎがあります。一つは奇跡を排除する方向です。現代において、奇跡は起こりません、癒しは起こりませんという信仰です。でもそれは本来のキリスト教ではありません。聖書に書いている信仰とは違うものです。他の宗教が手をかざして癒しを祈っているから、教会はやめましょう、となるわけです。しかし、これは明らかに正しい反応ではありません。イエスは、はっきりと弟子たちと教会に命じました。「病人のために手を置いて祈りなさい」と。あまりにも理性主義、合理主義に陥ってしまって、キリスト教の超自然性を排除していく傾向が見られます。
一方の行き過ぎはやたら奇跡を強調する傾向です。例えて言えば、聖餐式にぶどう酒を用意しないで水を入れるようなやり方です。水をぶどう酒に変えるようにとイエスは弟子たちに一度も命じていません。聖書にそのような記述がありません。ですから、おそらく神は私たちにもそのことを求めていないでしょう、ということが分かります。もちろん今も神は水をぶどう酒に変えることができます。神に不可能はありません。もし特別な事情があって必要があれば、主はされるでしょう。でもあえて私たちはそれを求める必要はないと思います。
水の上を歩くこともそうです。イエスは水の上を歩きました。ペテロも少しだけ歩きました。でも、主はそのことを私たちに命じておられないので、私たちは水の上を歩く必要はないでしょう。水の上を歩くことはできないでしょう。韓国でリバイバルが起こった時に、非常に熱心になった少女が水の上を歩くことに挑戦して溺れて死んでしまうというショッキングなことがあったようです。奇跡に関心を持ちすぎると、神秘主義に陥ります。神秘主義が必ずしも悪いと思っていませんが、極端になると聖書全体の教えからずれていくことになる危険性があります。
私たちは奇跡を信じます。聖書に書かれている奇跡、今も神が私たちにするように命じておられる奇跡、しるしと不思議、癒しを決して取り除いてはいけません。でも、主だけがなされた奇跡と、聖書に書かれているように主が今も私たちに期待しているような奇跡を分けて考える必要があります。
キャサリン・クールマンが「私は奇跡を信じる」と言った時の奇跡は、どのような奇跡でしょうか。彼女は、水をぶどう酒に変える奇跡を想定していません。想定しているのは、イエスが弟子たちに命じ、初代教会が実行し、使徒パウロが記している奇跡です。
大雑把に言えば、病の癒しと悪霊追い出しがトップにきます。そして異言や預言、知識のことばなどの御霊の賜物が続きます。その際にいろいろなしるしと現象が起こることがあります。天と地がつながる時に、聖霊が注がれ、イエスがナタナエルにもっと大きなことを見ることになるますと言いましたが、不思議なことが起こる可能性があります。場合によっては、水がぶどう酒に変わることもあるかもしれません。私たちが信じる神は偉大な神なので、私たちは神がなさることをコントールすることはできません。私たちも「奇跡」を信じましょう。主がなされる奇跡を信じましょう。主が私たちを通してなされる奇跡を期待しましょう。
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