ヨハネの福音書1章4節に、この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。と書かれています。ヨハネ1~7章までの主題はいのちでした。8,9章の主題は光になります。主は光を持って私たちの闇の部分を照らし、私たちの真の状態を明らかにしてくださいます。それは辛いですが、良いことです。光が当たらなければ私たちは中々変わることができません。今日の箇所では、光が当たったことによって人生が変えられた女性を見ます。
1 イエスはオリーブ山に行かれた。2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネの福音書8章1~11節)
姦淫の場で捕らえられた女性がイエスの所に連れて来られました(3節)。現行犯ということでしょう。おそらく何らかの情報があって待ち伏せしていたのだと思います。そして律法学者とパリサイ人はイエスを訴える材料として使ったわけです。当時、法律上のいざこざが起こると、ラビのところに問題を持ち込み、解決してもらうというのが決まりでした。彼らはイエスのことをラビと見なして話を持ちかけました(4節)。
当時、姦淫の罪は、男女両方とも死刑でした。しかし、彼らは女性しか連れて来ませんでした。告発することが一番の理由だったので、必ずしも男性が必要でなかったのでしょう。もしかするとこの男性は彼らが用意した人である可能性も考えられます。とにかく彼らはイエスを罠にかけたかったのです。彼らはイエスに問います。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか(5節)。
主イエスに問う律法学者たち
イエスはずっと罪人を招くために来たと言い、「愛」と「赦し」を語ってきました。ですから、今までのイエスの主張を通すならば、姦淫の女も「赦す」ということになります。ただし、赦すと律法を無視することになり、彼は人々に姦淫を犯すよう助長していると言われ、イエスの信頼はガタ落ちになってしまいます。
逆にモーセの律法の通りに(レビ記20:10 申命記22:22)彼女を裁きなさい(死刑にしなさい)と言うならば、今までの主張が全て違うのではないかと言われ、その評判は落ちてしまいます。愛と憐れみの人、罪人の友とは呼ばれなくなってしまうでしょう。
つまり、どちらを選んでもイエスの立場が悪くなるような質問を、宗教家たちはしたわけです。ここにパリサイ人たちの間違った権威が示されています。それは人を裁くためだけの権威です。しかし、イエスの権威は違います。イエスはその権威を人を裁くためではなく、人を救うために用いています。
イエスは彼らの意地の悪い質問には答えず、身をかがめて、指で地面に書いておられました(6節)。いったい何を書いていたのか気になりますが、彼らに考えさせ反省の機会を与えたのではないでしょうか。アルメニア語の新約聖書の訳ではこの箇所がこう訳されているそうです。「彼は顔をふせて、指で地面に彼らを断罪する言葉を書いた。彼らは自分たちのいくつかの罪が書かれているのを見た」 姦淫の女を責めている当事者たちの罪を地面に書き付けた、というわけです。彼らの罪を言い当てたということです。これは興味深い訳だと言えますし、一理あるのではないかと思えます。
けれども彼らは反省するどころか、ますますしつこく質問し続けました。そこでイエスは身を起こして言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)
返答する主イエス
この言葉は、彼女に対する罪の宣告ではありませんでした。彼女を訴えている偽善者たちの心を突き刺しました。今やイエスを告発する理由を得ようとしていた律法学者とパリサイ人たちは、自分自身が告発される立場に追い込まれたのです。イエスは山上の説教で言われました。「裁いてはいけません。裁かれないためです。」と。他人を裁けるほど人は善良ではありません。これが人間の現実です。神のみが人を裁くことができるお方です。ですから、うわべで人を軽々しく裁いてはいけないのです。自分が裁判官であると勘違いして、神の位置に自分を置いて、他の教会やクリスチャンを批判してはいけないのです。
彼らは誰一人、自分が完全であると主張できませんでした。それで年長者たちから出て行きました(9節)。彼らがここでただ出て行くのではなく、ひざまずいて自分の罪を恥じ、悔い改めたなら、彼らの人生は変わったものになったでしょう。
彼らの律法に従う熱心は人を裁くためであり、自分自身を反省する態度に欠けていました。他人の罪を認めることにはとても鋭いのですが、自分の罪に対しては全くの鈍感なわけです。彼らは自分自身を正しいとする態度が根本的な罪である、ということに最後まで気づけませんでした。ここでの最悪なケースは、自分には罪がないとして石を投げる人です。全く救いようがなくなってしまいます。
うなだれる姦淫の女
その場所にイエスだけが残されました。イエスは彼女に聞きます。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」(10節) 彼女は答えます。「だれもいません。」(11節) 原文では「主よ、誰もいません」となっています。主よとの呼びかけがあります。彼女はイエスを信じたのです。
この物語の結びのことばをイエスが発せられます。「わたしもあなたを罪に定めない。」(11節)罪の赦しの宣言がなされます。ここに希望があります。罪のないイエスだけが罪の赦しを宣言することができます。彼らが姦淫の女性を有罪にしようとしたのに対して、イエスは赦し無罪にしようとされました。
「私たちは罪に定められない」これが私たちのアイデンティティです。私たちはイエス・キリストの十字架によって罪が赦されているので、罪に定められることはありません。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ人への手紙8章1,2節)
イエスは続けて彼女に言われました。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節) 大事なのは過去ではありません。大切なのは、現在であり、未来です。イエスは「心配しなくて大丈夫、今まで通りに生活しなさい」とは言われませんでした。そうではなく「今からは決して罪を犯してはなりません」と言われたのです。
イエスは決して罪を軽く見たわけではありません。悔い改めと聖められて生きることへの招きをされました。「新しい出発をしなさい」と言われたのです。私たちは恵みを無駄にしてはいけません。イエスは私たちにも、罪の赦しの事実を、新しい人生の出発点とすることを勧めておられます。
イエスはこの女性にチャレンジを与えられました。「今からは決して罪を犯してはなりません」 多くの人は彼女がまた前のような生活に戻って行くと思ったことでしょう。しかし、イエスは彼女を信頼したのです。そして、選択を迫られました。元の生活に戻るのか、イエスと共に新しい道を歩むのか。「あなたは確かに罪を犯しました。だが、人生はまだ終わっていません。もうこれからは罪を犯してはいけませんよ。もっと良くなることを証明しなさい。そうすれば、人生の終わりにそれが明らかになるでしょう。」と言われたのです。
この物語は未完です。この女性はどのような歩みをしたのでしょうか。きっとできるだけ罪を犯さない人生を歩んだのではないでしょうか。私たちもそうです。私たちの人生はまだ未完で、終わっていません。これからどうなるか分かりません。素晴らしい可能性があり、また逆に罪に陥る危険性もあります。イエスは私たちの過去よりも、未来に関心があります。
どのような人生を歩むのか、神は私たち一人一人にもチャレンジを与えておられます。これまでと同じような生活のまま歩むのか、それとも神と共に新しい歩みをするのか。人生は神の御前に立つ時まで未完であり、どうなるか分かりません。2021年度上半期が終わり、下半期が始まりました。罪の赦しに感謝し、救いの恵みを無駄にしないで、今から今日から気持ちを新たにして、神と共に、イエスと共に、聖霊と共に、新しい出発をしていきましょう。
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